i.e.

 

 診察を終えたは、カルテに何か書き込んだ後思い切り渋面で目の前に座る患者を見た。患者―千堂武士は引きつり笑いでそれに応える。
 

「こら!千堂くんまた言いつけ破って過度なトレーニングしたね?」
「バレた?いやあ、何で若先生にはバレてしまうんやろうなあー…あは、」
「笑って誤魔化さないんだよ!まったく…」
 

 千堂は若先生と呼ばれたに比べれば、一回りも二回りもがっちりとした体格をしている。プロボクサーなのだ。関西ではそれなりに、関東でも最近そこそこ人気の出て来た彼は、態度もデカイが実力もある。
 そんな、一睨みで人を怯えさせるような屈強のボクサーだが、に怒られると精一杯身を縮める。1ヶ月前に病院の近くで足を痛めたと入って来た彼を診察してから、何度も何度も過度のトレーニングを控えるように言ってきたにも拘わらず、今までの通院でそれを守っていたことが一度もない。
 言いつけを守っていないという自覚もあるのだろう。だからこそ、千堂はこうやって最近ではがカルテから渋面をこちらに向けるだけで条件反射のように背筋を伸ばしていた。
 

「確かにスポーツ選手だからか君の怪我の治りは人より早いけどね?でも無理したら治るものも治らないだろう。」
 

 溜息混じりに溢しながら、は傍らに控えていた看護師にカルテを渡して一言二言告げる。にこやかに返事をして、看護師は診察室を出て行った。
 それを見送って、千堂はを見て子供のようにくちびるを尖らせた。でも、と言う。
 

「でもな、若先生。ワイ大丈夫やねんもん!ちゃんとトレーニング続けな、かえって身体が鈍って駄目になるわ。」
「だから、それだったらかかりつけの医師に診て貰えばいいって言ったろ?紹介状書くよって言ったのに、嫌だって言ったのは千堂くんの方じゃないか。」
 

 そもそも、が医師を務めるこの病院は、地域の小さな整形外科だ。患者といえば足腰の悪いおじいちゃんおばあちゃんばかりで、新規の患者と言うのが珍しかった。しかも、が一度も診たことのないプロのスポーツ選手。治す手伝いをするにも、勝手がよく判らなかった。
 診察ついでに千堂の話を聞けば、普段ちゃんとかかりつけの先生に身体のことを任せているという。考えてみればボクシングは激しいスポーツだし、長く続け、そして勝つためにもトレーニング以外の細やかなケアも当然必要になるだろう。だから、どうせならその先生に診て貰ったらどうなのだ、とは何度か千堂に説得を試みた。
 あくまでもこの病院に来たのは、電車の駅で落ちそうになったおばあちゃんを咄嗟に受け止めた際に、変な足のつきかたをしてしまった為だ。歩いてみたらそれなりに痛かったから、取り敢えず診て貰うためにおばあちゃんに言われるままここに来たのだ。
 

「嫌や。紹介状っちゅーの?症状書いてもらうんも金要るんやろ?」
 

 だが、その度に千堂からは同じ答えが返ってくる。通えない距離じゃないから、ここでいい、と。しかし、の言うことは少しも聞かない。憎めないというか、妙に人懐っこい性格をしているから迷惑には感じなかったが、治りも遅くなるし不便では無かろうかと、は常々思っていた。
 

「…まあ、いいけどね。今日でそれもお終いだし。」
「へ!?」
 

 ふ、と息を吐き出して、何気なくが言うと千堂が素っ頓狂な声を上げた。その声といったら普通よりも少々大きめで、診察室いっぱいに響き渡る。おそらく、外にも聞こえただろう。目の前でその声をまともにかぶったなど、思わず耳を塞ぎそうになった程だ。
 

「な、なんで!?」
「何で、って…完治だよ。大分予定よりも遅くなったけどね。」
 

 やはりスポーツ選手だと基礎体力が違うのだろうか、言いつけを守らなかった割に、千堂の治りは非常に早かった。なぜか放心気味の千堂に内心首を捻りながらも、は机の引き出しに入れていた封筒を取り出した。
 はい、と差し出せば、我に返った千堂は封筒とを見比べておずおずと自分を指さした。自分にか、と言うんだろう。首肯して、尚も差し出す。それでもまだ受け取ろうとしないので、口を開いた。
 

「もしまだ何か違和感があるようなら、これを持って今度こそかかりつけの先生の所へ行きなさい。怪我したときの事と、ここでの治療について書いてある。」
「でも…」
「大丈夫、これは俺が勝手に千堂くんに渡すものだからお金なんてとらないよ。」
 

 苦笑して、やがては半ば無理矢理千堂の手に封筒を握らせる。完治と言えるところまできたのだから、ここから先はちゃんと千堂の身体全体の機微を知っている先生に任せた方が良いだろう。すっきりしたと逆に、しかし千堂の表情は冴えない。
 

「……そやったら、違和感あったときはまた若先生に診て貰ったらええやんか。」
「それは、無理。」
「若先生!!」
「仕方ないよ、物理的に無理なんだもの。」
 

 妙に食い下がる千堂に、はあっさりとそう言った。彼の気迫は確かにボクサーらしく、結構怖かったけれど、は怯まなかった。どこか、子供が駄々をこねるような、そんな可愛さがある気がするのだ。彼のようないかにも男らしく、強い人に対して可愛いというのはあまりにアンバランスだけれど。
 物理的に、と聞いた千堂は怒気を霧散させて、浮かしかけた腰を再び椅子に戻した。きょとんとしたその様子は、やっぱり図体の大きな子供のようで、は笑みが浮かびそうになってしまう。
 それをなんとか我慢しながら、いいかい、と千堂に人差し指を立てた。
 

「ほら、千堂くん、俺のこといつも何て呼んでた?」
「何、て、そりゃ…若先生、て。」
「そう。ここ病院は俺の病院じゃなくてね、今月いっぱいのヘルプ医師だったんだ。」
 

 病院の「」は、本当は自分の父親を指す。ここは自分の実家であって、が実際に勤務している病院は大阪にすらなかった。東京の、親戚の総合病院で整形外科医として勤めているのだ。看護師や患者さんたちは、院長の「先生」と混同しないように、分かり易く「若先生」と呼んでいた。千堂はそれを知らず知らず、皆が呼んでいるからと呼び始め、今では呼び慣れてしまったというわけだ。
 

「うちの親父が医者のクセに持病を抱えててね、今回医者としての寿命をあと20年は延ばしてもらいたいとかなんとかで事前に手術することになったんだよ。だから、その間、俺が勤めてる病院からヘルプという形でここに派遣してもらったの。」
 

 勤めている病院が親戚のものだし、自分も交代で勤務していたからあっさりとここに2ヶ月近く寄越してもらうことが出来た。それでも、休診の日は日帰りでも向こうの方に顔を出していたし、もちろん親の見舞いもあったからそこそこに忙しかった。それも、今月でお終いだ。
 

「そんな、」
「昔からの町医者だから、新規の患者さんも来ないだろうと思ってたら君が来て、吃驚したよ。…でも俺が最後までちゃんと診てあげられて良かった。」
 

 おじいちゃんおばあちゃんたちと比べたら格段に威勢がいい。言いつけも守らないし、声もデカイし、言葉遣いも丁寧とは言えない。千堂がとても手の掛かる患者だったことは確かだ。
 しかし、は1ヶ月ほどの付き合いであったが、彼のことをそれなりに好意的に見ていた。自分に好意的に接してくれているというのも分かったし、今までの患者とあまりにタイプが違うから、こういっては不謹慎だが 逆に新鮮で楽しかった。今もが思っていたよりなぜかずっとショックを受けている様子の千堂を見ていると、弟がいたらこんな感じだろうかと微笑ましくすら思えてしまう。
 

「ボクシング、頑張ってね。…お大事に、元気で。」
 

 さて、そろそろ受付にカルテを持っていて薬や会計の準備を済ませた看護師がしびれを切らす頃だろう。彼らの手を煩わせてはいけない、とは立ち上がり千堂を促した。既に渡した封筒は握りしめられてくちゃくちゃになっている。
 頭を微かに下げたような気がしたが、とぼとぼと診察室を出て行く千堂は無言だった。

 

 

 それから数ヶ月、はすっかり元の生活に戻っていた。ひとり暮らしのマンションと、大きな総合病院を行き来するのがほとんどの、忙しくも充実した日々だ。大阪でのこぢんまりした病院でゆっくり患者さんと向き合うのも良かったけれど、こっちはこっちでやりがいがある。
 時々、手の掛かった患者、千堂のことを思い出す。思い出すときは大抵小さな笑いがくっついて来て看護師や他の医者の首を捻らせる。きっと、彼は今も元気いっぱいに、大好きなボクシングをしているのだろう。ボクシングとはあまり縁がないから、彼がどういう状況なのかはさっぱり分からないけれど、千堂は相変わらずだろうと、には確信とも言える思いがあった。
 そうしてこの日も一日の診察を終え、椅子の背もたれに身を任せて息を吐き出したところに、デスクの上の電話が鳴った。受話器を取って耳に当てると、内線は実家からの電話であることを告げて外線に切り替わる。
 

「父さん?どうしたの。」
 

 こちらもすっかり元気になって、また毎日の診察に精を出している父。昔からそうだが、彼が息子である自分にプライベートな電話をしてくることは本当に珍しい。一瞬、仕事の話かと背筋を伸ばしたくらいだ。
 だが、のほほんとした口調の父は、を驚かせるようなことを言い出した。
 

『こないだなあ、お前の勤めとる病院の名前教えてくれ言うてやって来た子が居ってな。』
「…は?」
『あんまり一生懸命やったし、看護師の子もその子を覚えとったから教えてやったわ。もし訪ねてきたら、よろしくな。』
「ちょっと父さん、それってどういう―」
 

 突然すぎて訳が判らない。詳しく聞こうと思ったのに、看護師がトントンと扉を叩いてきたから、は曖昧な返事をして電話を切るしかなくなってしまう。はい、と扉の向こうに声をかけると、おずおずと看護師が顔を出した。
 

「あの、先生…人が来てて、」
「うん?緊急?」
「いえ、あの、患者さんじゃないみたいで…あ!ちょっと、勝手に来てもらったら困りますってば…!!」
 

 言葉の後半は、診察室の外に向かっての言葉だった。待っててくださいって言ったのに、と批難めいた声を上げる看護師を押しのけて、その人物が部屋に入ってくる。尊大な歩き方と、肉食獣のようだがなぜか人懐っこい笑顔は、忘れようにもなかなか忘れられなかった人だった。父親の電話が何を言っていたのか、は瞬時に理解する。
 言いようのない気持ちに襲われて、は苦笑いを浮かべた。すみませんと何度も頭を下げる看護師を気にしなくても良いから、と下がらせて、彼だけを残して扉を閉めさせた。
 受け入れられるのは当然だ、とでも言わんばかりに、彼はこちらに歩み寄ってくる。患者であったときのように向かい合う椅子に座らず、彼はこちらを見下ろしてきて口の端を吊り上げた。
 

「よォ、若先生。久しぶりやな!」
「千堂くん」
 

 患者ではない、と看護師は言った。では彼は、一体なぜ大阪からわざわざ自分の居場所を聞いてまでここを訪ねてきたのだろう。
 笑顔のままの千堂に、は立ち上がる。初めて立って視線を合わせると、彼は自分よりも少し目線が高かった。確かずっと見ていたカルテによればの方が年上だったはずだが、体格といい身長といい、これではまるで千堂の方が年上のようだ。
 

「最後に見た意気銷沈ぶりが嘘みたいだ。」
「…ああ、まあ、確かにあん時はめっちゃ落ち込んだんやけどなあ…。でも、ああいうのワイの性に合わへん。」
「そういえば、なんであんなに落ち込んでたの?完治したって言ったのに。」
「いや、もうそれはええやんか、別に。」
 

 照れくさそうに鼻の下を掻いて、千堂がもごもごと口籠もるので、更にが首を傾げるはめになる。尚も問いかけようとするが、千堂はもうその件について突っ込んでほしくないらしい。が口を開くより早く、ごほん、と咳払いする。
 

「ワイな、結構しつこいねん。あきらめ悪いっちゅーか…アホやからな。」
「はあ」
「他の奴の試合見に来たりとかいろいろ、コッチにはよお来るから!今度からはその度に若先生のこと訪ねたる。そやから、よろしくな。」
 

 晴々とした笑顔を浮かべる千堂につられても笑う。どうやら、彼のことを思い出の中の「印象に残る患者」として過去の人にしてしまうのはまだ早いらしい。
 差し出された手を握り返せば、ぎゅう、と力任せに締められては小さな悲鳴を上げるはめになった。彼がプロボクサーとしての実力者だと、今更ながら実感したのだった。

 

 

 

 

(090310)
ちょっと再燃したのではじめの一歩。千堂さん、大好きなんですよねー!
分かる人がいらっしゃったらいいなあ…!!
ちなみに、主人公の年齢的は木村さんとかと同じくらいのつもりで書いています。
あ、それと、お医者さんのことに関しては当然といえば当然ですが大部分が想像です。