天来の福音

 

 駅を出て歩くこと15分、ようやく見えてきた自分の住まいであるマンションに、は安堵の息を吐き出した。その息は12月下旬の気候に真っ白に染まって、慌てて幾重にも巻き付けたマフラーに鼻まで埋めた。テレビではこの週末には雪もちらつくだろうと言っていた。どうりで寒いはずだ、と自分で納得しながら、知らず歩く速さを上げてマンションを目指す。
 視界がそびえ立つマンションに埋め尽くされようかという頃、は自分の部屋がある階の辺りを見上げて、あれ、と思った。こうこうと灯りがついているあの部屋は、自分の部屋ではないか。
 が朝っぱらから電気を点けっぱなしにして忘れていったなんてことはない。ガス栓などのチェックと戸締まりは、どんなに眠くても毎朝欠かさずにしている。では、と思い当たるのは、合い鍵の存在だ。自分が持つ鍵以外に、合い鍵が2つある。一つは、相手は二十も半ばにさしかかろうかという息子相手というのに、いつまでも心配性なの両親が持っている。ちなみに、その両親とは昼休みにメールのやり取りをした。年末になるとお決まりの、「正月は帰ってこれるの?」というやつだ。微妙に立て込んでいる仕事の関係で、確かな日取りは分からないけれど必ず顔を出すと返事をした。そんなやり取りをしたくらいだし、その時に母親は特に何も言っていなかったから、両親ではない。
 では、もう一つの合い鍵。これは、両親や賃貸の契約をしている不動産屋も知らない。が社会人となりこのマンションに住み始めようという頃に、こっそり鍵屋で複製したものだ。


(まさか。)
 

 そこまで考えたところで、はエントランスを過ぎてエレベーターに乗った。必然的に部屋の電気を点けているのはその合い鍵の持ち主と言うことになる。それ以外答えがないと分かっていても、には俄に信じがたかった。エレベーターが止まって、外へ一歩踏み出す。自分の部屋の前まで歩いて、ドアノブに手を掛ける寸前で止めた。
 きっと、鍵は開いている。捻って引っ張れば、呆気なく扉は主を迎え入れるだろう。しかしそれをせずに動きを止めたまま、は眉間にしわを刻んだ。それでも結局ひとりビル風が吹き抜ける廊下で考えていたところで自分が納得できる答えは導き出せそうにない。大きく息を吸い込んで、ドアノブに手を掛けて扉を開けた。ぱっと視界を明るくする室内灯と、ふんわりと温かいエアコンの空気がを出迎えてくれる。
 同時にリビングへと通じる扉から、が思った通りの人物が顔を出した。の顔を見て、ゆっくりと笑う。
 靴を履いたまま玄関に突っ立っているこちらへと、右脚を少し引き摺りながらその人はやって来た。上がり口のぎりぎりに立って、笑顔のまま見下ろしてくる。
 

「灰二」
「おかえり、。足音がしたのになかなか入ってこないから、他の部屋の人かと思ったよ。」
 

 遅かったね、と、穏やかな声はそう続けて、の手から鞄を取り上げた。くるりと背を向けてリビングへ戻ってしまうから、もたもたと靴を脱いで部屋に上がる。これでは灰二の方が部屋の主のようだ。整髪料でぱさついた髪の毛をかき混ぜながら、もう一方の手でマフラーを外しながらコートのボタンを外す。リビングに足を踏み入れれば、美味しそうなにおいが鼻腔をくすぐった。伏し目がちに灰二の足を追っていた視線を引き上げる。
 そこには小さなテーブルの上に、所狭しと料理が並んでいた。恐らく、灰二が作ってくれたのだろう。皿と皿の間、小さく空いた隙間には、グラスがちょんと2つ、載っている。
 

「これ、」
 

 コートとマフラーを床に放り、ぼんやりと料理を見つめるを見て、灰二はふふ、と笑みを溢した。悪戯が成功したときのような、そういうちょっと意地の悪い笑みだ。
 

「会うの、久しぶりだよな。」
「え、あ、うん。」
「最後に会ったのって、俺が夏休みの頃だっけ。」
 

 灰二の言葉に、曖昧に頷く。合い鍵を渡したのは、大学を卒業してお互いの道が分かれてしまったのが寂しかったからだった。は社会人になって、灰二は新たな夢の為にもう一度学校に入った。まだ気侭な学生でいるなら、時間が空いたときくらい会いに来てくれれば、と、思ったのだ。実際には、自分の仕事は忙しすぎるし、灰二だって遊ぶために学生を続けているわけじゃないから思ったように会うことなどできなかった。
 

「今日から俺冬休みで、それでもって、今日はクリスマス・イブだろ。だから、待ってた。」
「そん、そんなら、メールくらい入れてくれれば。」
 

 微かに動揺を隠せないまま、は視線を彷徨わせた。壁に掛かった時計が灰二の向こうに見える。クリスマスなんて、その前日も含めて自分にはあまり関係ないことだと思っていた。だから、先輩が両手を合わせて仕事を変わってくれと頼んできたときにも二つ返事で頷いたのだ。
 自分にも恋人、と呼んで良いであろう人はいる。と、いうか、目の前の灰二がその人だ。でも彼とは前述の通り最近ではメールが一週間に数通と言ったところで、4ヶ月近く顔も見ていなかった。当然のようにクリスマスに二人で、などという発想にはいたらなかったのである。それまでにしても、去年は箱根駅伝が目前に控えていて、クリスマスどころではなかった。一昨年はまだ付き合っていなかった。彼に何気なく付き合おうかと言われたのは、クリスマスにかこつけた独り身だらけの宴会が済んでみんなが寝静まった頃で、の記憶が確かならもうあの時には26日になっていたはずだ。
 

「待ってようと思ったんだ。」
 

 言い訳のように頭の中でぐるぐる考えていたら、灰二がぽつりと言った。静かな双眸は、真っ直ぐにを映し、きらきらと光る。
 灰二とはただの顔見知りとして、友人として、そして恋人としてそれなりに付き合いが長いつもりだった。そこそこ、彼の内情や性格なんかも理解できているはずだった。でも、こんなことは初めてで、はどう反応して良いのか戸惑ってしまう。部屋の電気が点いていた時も、それが灰二が居るからだと察した時も、喜びよりも驚きの方が大きかった。
 

「だって、いつもに待ってもらっていただろう?」
 

 そんな戸惑いもお見通しだと言わんばかりに、絶妙なタイミングで灰二が助け船を出す。
 

「え」
「いつも、俺はのこと、平気で待たせてたから。今日は俺がいつまでも待ってようと思った。だから、メールもしなかったんだ。」
 

 そうだっただろうか。は思う。
 自分は、そんなにいつも彼の事を待っているばかりだっただろうか。思い返してみても、よく分からなかった。恋人らしいことを何もしていない、という自覚はあっても、待ってばかりだと思ったことなど一度もない。
 なぜなら、は灰二が何を望んでいるのか、どうしたいのか、優先順位は何なのか、それらを知っているつもりだったからだ。言葉は悪いが、それによって自分が後回しにされようとも、それすら含めてが好きな灰二だった。灰二が走っている姿を眺めるのも好きだったし、目標を夢だと片付けずにストイックに邁進していく様子も恰好良いと思っていた。
 だからいきなり「待たせてばかりだから待ってみた」と、言われたところで、間の抜けた返事しかできない。
 一方の灰二は、料理が並んだテーブルを前に突っ立ったままになるを見て、目元を和らげた。床の上にくしゃくしゃになったコートとマフラーを拾うと、しわにならないように腕にかけて、一歩に近付く。呆けたまま見上げてくるに笑みを濃くして、その頬に触れる。暖房にすっかり暖まった灰二の手のひらは、の外気に冷えた頬には熱いくらいだった。
 

「でも、待ってるのは思ったより大変だった。もうごめんだな。」
「そっか」
「ああ。にも、もうこんな思いはさせないようにしようと思った。」
「…そういうのは、わ、わざわざ言わなくていい…」
 

 どことなく流れる甘い雰囲気に、はみるみる間に顔を赤く染め上げる。灰二が触れたままになっている自分の頬が、有り得ないくらい熱い。こんな空気には慣れていないのだ。今日はこんな1日も終わりに近付いてから、慣れないことばかり続く。
 あれだけいろいろと喋ってくれた灰二が全く喋らなくなって、自分も勿論何を言えばいいのか分からなくて、慣れない雰囲気にそわそわとした居心地の悪さを感じる。が耐えきれなくなって音を上げるのは早かった。
 

「……。…っ!」
 

 がっ、と足音が響くくらいに後ずさると、灰二の腕からコートとマフラーを掴み取る。誤魔化しようのない赤いままの顔はそのままに、睨み付けるようにして声を出した。
 

「着替え、てくる!」
 

 そのままずかずかと寝室に引っ込んでしまう。
 の頬に当てていたままに手を挙げていた灰二は、がったんばったんと騒がしい寝室の物音を聞きながら笑みを溢した。着替えるにしては騒々しい物音は、照れ隠しなのか動揺が頂点に達したのか。それでも、機嫌を損ねたのではないことは分かっていた。
 一頻り肩を揺らして、灰二はふっと息を吐き出す。テーブルに近付いて、待っている間に冷めてしまった幾つかの皿を取り上げた。が着替えを済ます間に温め直せば、冷えたまま食べるよりは美味しいだろう。ついでに、冷蔵庫の中からこの日のために買ってきたシャンパンを取り出さなければ、と思い出す。キッチンへ向かいながら、先程のの態度を思い出して灰二はのんびりと呟いた。
 

「やっぱり待つのに慣れさせるべきじゃなかったな…これじゃあ先が思いやられる。」

 

 

 

 

(091225)
風強はハイジさんが格好良くて大好きです…!他のみんなも大好きなんですけどね!
クリスマスシーズンのなんて書いたのすごく久しぶりな気がする…。