イーノックの元に顔を出し、他愛のない会話をする。その帰り道、どこまでも続くような純白の廊下を歩いていたルシフェルはふと足を止めた。何本も、遠くまで続く大きな柱。その影からペタペタと小さな音が聞こえてくる。
この足音には聞き覚えがあった。まあ、もっとも、聞き覚えのある内の「誰であるか」という所までは流石の彼にも分かりかねた。
「ルシフェル」
「やあ、君か。」
ペタペタと大きくなる足音と共に、一羽の立派な白鳥が近くの柱からひょこりと顔を覗かせた。ルシフェルは少しだけ口元を緩ませて片手を挙げる。
白鳥は純白ではなく、濃い青の混ざった不思議な色合いをしていた。彼はルシフェルの双子の片割れ・ミカエルだ。ミカエルは白鳥の姿のまま、ゆっくりとした足取りでルシフェルの足下まで歩いてくる。立派な白鳥とはいえ、首を伸ばしてもルシフェルの太ももくらいまでしか無い。
挨拶を済ませ、はて、と首を傾げる。なぜミカエルはこんな鳥の姿のまま天界を歩いているのだろう。
彼は、別に元から白鳥ではない。自分と双子なのだ。片方が人型で片方が白鳥なんて可笑しいだろう。ミカエルの本来の姿は、半端な天使だったら真っ赤になって俯く美青年だ―と、いっても、基本のパーツは自分と同じだけれど。
「なんでそんな姿なんだ?鳥の恰好なんて人間界に降りるときだけでじゅうぶんだろう。」
移動に不便だし、表情も分かり難い。何より、相手をする自分はいつも下を向いて話しかけなければならない。同じ顔を見ながら話すのも何だが、白鳥と廊下のど真ん中で会話をするよりはマシというものだ。
しかし、ミカエルは笑うように嘴を何度か開閉させた。ふわふわと右の羽を広げてみせる。
「予感がしてね。」
詳しく説明する気はないらしい。ルシフェルが首を傾げたタイミングで、またもや遠くから足音が近付いてきた。
ペタペタとミカエルと似たような足音だが、今度は確実に鳥ではない。人型の天使が、脚を覆うサンダルを擦るように歩いているのだ。この足音については、ルシフェルは確実に相手を当てることができる。
隣のミカエルを見下ろしてみれば、嘴から尾羽までをぷるぷると振るわせているところだった。その姿は、何かに対する期待が見て取れる。
(もしかして、)
ミカエルの予感に思い当たったところで、足音の主が姿を見せた。ミカエルとよく似た立派な白鳥を抱え、難儀そうに歩く彼は、ルシフェルですら軽く目眩のする美貌をたたえていた。
そう、彼は美しい。ただただ、美しい。
可憐だと思えば可憐に美しく、逞しいと思えば逞しくも美しい。彼は神に寵愛を受ける唯一無二の美しさを持ち、それ故にすべての力を取り上げられてしまった。神の傍から、永遠に続くひとときですら離れられないように。そうして彼は、ただ美しいだけの存在となったのだ。天使たちの力関係による序列からもはじき出されている。
白鳥を抱えて歩く彼は、ルシフェルとミカエルに気付いて顔を上げた。軽い笑みを口の端に浮かべ、ぺこりと頭を下げる。微笑も、お辞儀の際に流れる髪の毛の一本一本も芸術の域だ。
「」
名を呼んだ声が、自分のものだったのかミカエルのものだったのかはもうよく判らない。ただ、ミカエルの予感とはまさしくだったのだろう。
彼は腕に抱いた白鳥を抱え直しこちらに向かってきた。白鳥は柔らかな紫の混じった色合いをしている。彼女はガブリエル、ミカエルと同じアークエンジェルだ。無論、彼女が天界で白鳥の姿を保っているのも珍しいことだ。誰もが溜息をつく美しさを持つ彼女が、不便な鳥の姿を保つ必要は無いのだから。
「ルシフェルもミカエルも、こんな所で兄弟揃ってどうしたの?」
「今会ったばかりだよ。…君は?ガブリエルを抱きかかえてどうした。」
「散歩です。気持ちのいい風が吹いていたから…ねえ。」
は嬉しそうにガブリエルと瞳を会わせて微笑み合う。彼はどうしてかアークエンジェルたちの白鳥の姿をひどく好む。天界には地上のどんな鳥たちよりも美しい鳥がいるけれど、それらよりもアークエンジェルたちが白鳥の姿を象っているのに惹かれるらしい。
それこそ、ルシフェルがいろんなところ転々として手に入れてきた人間達の叡智の結晶などでも、の興味はそうそう惹けない。アークエンジェルたちが白鳥の姿になれば、宝石など石ころに見えてしまう彼の美しい双眸はあっという間にそちらに引き寄せられてしまう。
よいしょ、とはガブリエルを下に降ろした。彼女は名残惜しそうに羽を振るわせて彼を見上げる。
「長い間抱きかかえていてごめんね。貴女にも用事があったのに。」
「構いません。とても楽しかったですから。」
ガブリエルの小さな頭を、はしゃがみ込んで撫でた。彼の手に頭をすり寄せたガブリエルは、ルシフェルとミカエルに形だけの会釈をしてふわりとしたそよ風を残して姿を消した。人型に戻り、用事とやらを済ませに行くのだろう。
ルシフェルの隣でそれを見つめていたミカエルは、ガブリエルの気配が無くなってからペタ、と一歩を踏み出した。ルシフェルが声をかけるよりも早く、ペタペタとの傍らへ進む。しゃがんだままのは、近付いてきたミカエルの顔を覗き込んで笑った。
「ミカエルまで白鳥の姿だなんて、珍しい。」
その笑顔で人間界の花々まで一斉に開きそうだ、などと頭の片隅で考えていれば、ミカエルは羽をふわふわと動かして、に何かをアピールしている。細く真っ白なのかいながミカエルに伸ばされた。
ルシフェルは苦笑を漏らす。ミカエルは最初からこれが目的だったのだ。人型からいきなり鳥の姿になったのではあからさますぎる。
大事そうに抱きかかえられた自分の片割れは、に分からないようにルシフェルに視線を向けた。鳥の表情なんて分かりやすいものではないけれど、その顔が確かに勝ち誇ったように笑って見える。
どんなにに好意を寄せても、ルシフェルは絶対彼にミカエルのような好意を向けて貰えない。偏に自分が人型であるためだ。真面目に考えると、何だか理不尽に思えるから考え込んではいけない。
「私も一緒に歩いてもいいかな?」
「どうぞ。貴方のように颯爽と歩くことはできないけど…」
「ゆっくり歩くのも偶には悪くないさ。」
二人で並んで、の歩みに合わせて進む。彼の旋毛を見つめていると、時たまミカエルと目が合ったりする。
自分も一度くらい、彼の陶器のような肌に抱きしめられてみたい。隣にいても空気が違うくらいだ。抱きしめられたなら、果実よりも甘いにおいがするだろう。考えて、溜息のように言葉が漏れた。
「…我が片割れながら、羨ましいものだな。」
「君に羨ましいと思って貰えることなんてそうそうないからね。」
得意そうなミカエルの言葉に、きょとんとした顔でがルシフェルを見上げてくる。珍しくばっちりと目があって、ルシフェルは柄にもなく少し鼓動が速まった。ルシフェルの顔を見つめ、ミカエルを見つめ、は独り言のように口を開いた。
「ルシフェルも鳥型になれればいいのに。」
きっと気高く綺麗な鳥になれるでしょうね。
心の底から言っているように聞こえる彼の声に、ルシフェルは珍しく盛大に顔を歪ませた。なれないことはないだろうけど、に抱きしめられるためだけに鳥の姿になるなんて、自分のプライドが許さない。
いつかこのありのままの姿で君に抱きしめてもらうさ。心の中で呟けば、聞こえないはずなのにミカエルが声を上げて笑った。 |