還る処

 

 を出迎えた時の化野の恰好といったら、そりゃ酷かった。
 髪の毛はぼさぼさで、顎には無精髭、眼鏡の奥の目の下にはくっきりと隈。着物もよれよれで、玄関まで来る途中に本の山にでも足を引っかけたのか埃だらけだ。それなりに長い付き合いのだったから表情も変わらず、特にその酷いなりに敢えて何か言うようなことはなかったけれど、これが普通の人だったりしたら「先生一体どうなすったんですかい!?」なんて目を大きく大きく見開いて叫ぶに決まっている。
 兎に角、本人はそういう酷い状態になっていることを自覚しているのかいないのか定かではないが、玄関先のに首を傾いだ。静かな表情の下ではやはり驚いていたのだろうか、はまだ一言も発していなかったのだ。
 

「どうした」
「上げておくれ。…あと、わたしが訪れていくら嬉しいからって、出迎えるときに埃まで連れてこなくて良いんだよ。」
 

 白くて細い指が、そうっと化野の肩の埃を払う。化野はそこで初めて自分にまとわりついている埃に気付いたらしい。出口にが居るにもかかわらずその場で着物に付いていた埃をばしばしとはたきだした。これには流石のも目をきゅっと細める。袖で口元を覆い、風の通り道を開けるように身体を出口の片方に寄せた。
 

「わたしを埃まみれにする気かい、化野。」
「……あ、悪い。ほら、突っ立ってないで早く入れ。」
「お前さんがその図体で玄関を塞いでるから入りたくても入れなかったんだけどねえ。」
 

 化野について家の中に入れば、そこは彼以上の惨状であった。やギンコが家の中でごろごろしている時だってお世辞にも片付いているとは言えなかったけれど、今この状態に比べたらそれは綺麗に整えられていると言えるものだった。
 本やら何やらが畳を覆い尽くすように散らばっているし、思った通りを出迎えるため玄関に来るまでに引っかけてしまったであろう無惨に崩れた本の山がふたつもあった。太陽の光が部屋に射す時間帯だったら、きらきらと舞っている塵が沢山見れただろう。
 が訪ねてこなければ、もっと散らばっていた可能性は否定できない。
 化野は見慣れてしまっているのか何も言わずに茶を出すため台所へ向かってしまった。暫し本の中に立ち尽くしたも、酷いとは思えど片付けてやろうとは思わない。適当に本を隅に寄せて背負っていた荷物と自分が座る場所だけを確保した。部屋の中にいるだけで自分も化野と同じく埃だらけになっていくような気がしたが、それをいちいち嫌がるような几帳面な性格もしていない。見た目に反して、はどこまでも無頓着だった。
 

「今回はまた遠くまで行ってたんだな。」
 

 十日ほど前にギンコが来たぞと付け足して、化野が湯飲みを二つ持ってやって来た。の向かいに座ると片方を差し出してくる。それを受け取りながら、この惨状はたった十日で出来上がったのかと心の片隅で思った。
 

「そうさねえ、ひとつきぶりかね?」
「そんなもんだろ」
 

 会わないときはもっと間を置くこともあるが、その前は結構頻繁に化野を訪れていたのでひどく久しぶりな気がした。茶をすすり、うんうんと頷きながらは懐を探った。同じく茶をすすっていた化野の片方の眉が跳ねる。
 

「なんだ、殊勝に土産でも持ってきたか。」
 

 薄く微笑んだのを肯定と取ったのか、湯飲みを傍らに置いて化野が手を差し出してきた。はその手の上に何かをゆっくりと落とした。
 手の中をまじまじと見つめる化野は、の前でありありとその表情を変えた。少し期待していたのかわくわくと嬉しそうなものが怪訝になって、最後には盛大に歪む。その、盛大に歪んだ顔でを見上げる。
 

「おい、こりゃ何だ。」
「見てのとおり帯留めさね。」
「帯留め…」
「そりゃお前さんに縁はないだろうけどね、見たことくらいおありだろ?」
 

 鼈甲でできたそれは、小振りながら凝った細工がしてあった。素人の目から見ても、直ぐに高価だと判る。
 

「…で、何で帯留めだ。」
「土産」
「莫迦かお前は。」
 

 盛大に溜息を吐いた化野は、手に取った帯留めをに返そうとした。
 蟲でも付いていたり曰く付きだというならば、確かに化野への土産にもなろう。しかしどう見ても真新しい帯留めは、女性に贈るのには良くても化野のようにくたびれた男に贈ったところで宝の持ち腐れである。生憎、化野にもこの帯留めを贈れる様な相手は思いつかなかったが。
 

「仕方なかろうね、化野へと貰ってきたんだから。」
 

 複雑な表情から化野の思うところをいくらかくみ取って、は目をよそへやった。そうしてぽつぽつと話し始める。
 ここに来る前、最後に立ち寄ったのは少し大きなお屋敷だった。そこで幾日か滞在して、壮年夫婦の娘についた蟲を払っていたのだ。元通り、元気になった娘を見て涙ながらに歓喜した夫婦は何度も何度もに頭を下げ華奢な手を取り上下に振って礼を言った。
 

「それでね、わたしはさっさと立ち去ろうと思ったんだけどねえ。」
 

 そこを引き留めた奥方が、に問うたのだそうだ。
 

『長々とお引き留めしてしまいましたが、お家にはご飯を作って帰りをお待ちの方がいらっしゃるのではありませんか?』
 

「…それで、お前なんて答えたんだ。」
「そりゃまあって頷いたよ。そうしたら、これをくれたんでね。」
 

 お前さんに渡したんじゃないかね、とは締めくくり再び茶をすする。化野は盛大に歪んだ眉で手の中の帯留めを見つめた。それから、を見る。いつもと変わらぬ表情で、いつも通り茶をすするは自分で話した内容に少しも疑問を感じていないのだろうか。
 

「あのな、。その奥方はお前に奥さんか良い人は居ないのかって意味で訊いたんだろ?」
「そうなのかい?」
「当たり前だろうが!大体、ここはお前の家じゃなくて俺の家だ!」
「…ああ、そう言えばそうだったねえ。」
「……」
 

 化野はがっくりと肩を落とす。付き合いが長いし、何かと溜まり場として家を提供しているがまさかここまでとは思っていなかったのだ。このままでは今にギンコも同じようにして土産を持って来かねない。今回だって、持ってきたのがギンコだったら恐らく一発殴っていたかも知れない。
 いくら気心が知れているからとはいえ、化野もこれだけ綺麗な顔を遠慮無く殴ることはできないのだ。
 

「…俺はお前達のおさんどんか…」
 

 哀愁すら漂わせて呟く化野の手から、は帯留めを取り上げた。この本の虫に帯留めなど、どういう使い道があったかと道すがら考えてはいたのだ。奥方に問いかけられ、家と言われ思い浮かべたのはこの後立ち寄ろうと思っていたこの家、飯を作ってくれる人は他でもないこの男。
 

「ふむ…それじゃあ、これはどうしようねえ。」
「…お前がつけたらどうだ。俺よりよっぽど様になる。」
「様も何も、化野がつけたんじゃおわらいぐささね。」
 

 お前が言うのか、と化野の目つきが一瞬悪化したが直ぐに溜息に変わった。今更に何を言っても無駄だと分かったのだろう。
 よっこいしょ、とかけ声と一緒に化野は立ち上がった。まとわりつく埃との視線を払うように着物を軽くはたいた。の話に 疲労も眠気もまとめていた書き物も、全部吹っ飛んでしまった。
 

「ご期待通り、飯でも作ってやるか…買い物に行ってくる。」
 

 どうせ、自分も最後に食べたのが何だったかよく思い出せないくらいに作業に没頭していたから。書物の山から財布を捜していると、後ろでが立ち上がる気配がした。化野のとなりを通り過ぎ、台所に二人分の湯飲みを置いて戻ってくる。
 

「わたしも行こう。」
「珍しいな。」
「この部屋に独りで居たんじゃお前さんが戻って来る頃には埃になって飛んでっちまいそうでね。」
 

 楽しそうに笑んだを見て、今一度溜息を吐こうとした化野は失敗してぐちゃぐちゃに顔を歪めて笑った。

 

 

 

 

(061025)
数日後、同じような経緯で両手いっぱいに野菜を持ってギンコがやってきます(笑)
奥さんというよりもふたりのお母さん、化野先生。