瑠璃鶲のみる世界 1

 

 入り口に手を掛け、中を覗き込んだは目を丸くした。
 

「師父、ただいま帰りました。…あれ?」
 

 部屋の中は薄暗く、窓も開けられていない。耳を澄ませど、しん、と静まりかえってしまっている。どうやら無人であるらしい。
 は国の外から帰ってきたときには必ずこの部屋を訪れて自分の師父に挨拶をしている。何か特別な用事でも無い限り、彼はいつでもの帰る時間にはこの部屋に居てくれる。いつもの仏頂面を少しだけ緩ませて自分を迎え入れてくれるのだ。弟子で人生においても随分と後輩の自分が言うのもおかしいが、その時の師父は少し可愛く見えてしまう。
 

「留守って話は聞いてなかったんだけど…困ったなあ。どうしようか、ねえ、。」
 

 まるで困っていないようなのんびりした声で、は斜め後ろへ顔を向けた。そこには背の高い美丈夫が腕を組んで明後日の方向を向いている。
 彼は、の斎に宿る神だ。腰まで波打つ豊かな髪の毛を割って生える二対の漆黒の角が、元の無愛想に加えて更に威圧感を醸し出している。
 はそっぽを向いたまま、自分を見つめ続けるに応えた。
 

「我は知らぬ。」
「もう!お前ときたらいつもそうなんだから。」
「知らぬ。…」
「…」
「…誰も居らぬのならばそうして中を覗き込んでいたところで時間の無駄だろう。先に東王公への拝謁でも済ませてしまえ。」
 

 素っ気ない態度を取る割に、ちゃんとには望む言葉をくれる。彼の言葉を最後まで聞いては微笑んで頷いた。部屋の扉を閉めると、今度は身体ごとに向き直る。
 そうしてやっと、もこちらを見た。切れ長の双眸がを見下ろしている。
 その視線をしっかりと受け止め、はちょっと眉を上げる。この後の問いに対するの言葉など、今日の夕食を当てるのよりも簡単だ。しかし、万が一、別の答えを聞けるかも知れない。そう思ってずっとこの問いを投げかけているのだが、
 

「一緒に行かない?」
「行かん。」
 

まあ、万が一などそう容易くおとずれるはずもない。今回もやはり予想通りの返事を受けて、はあっさりと引き下がった。ここで粘ってもが折れることはない。初めの頃こそも何とか彼を一緒に連れて行きたくて説得を試みたものだが、それらは全て徒労に終わった。
 

「じゃあ行ってくるから。」
「…、」
 

 片手を上げて彼の横を通り過ぎようとすれば、良く通る低い声が自分を呼んだ。控えめな声にもかかわらず、それはの耳にすっと入ってくる。条件反射のように、両の足が止まった。
 は眼を細め、を見る。言葉を探しているようだった。はじっと、彼の言葉を待つ。
 

「何かあれば我を呼べ。…お前が名を呼べば直ぐに行く。」
 

 自分の家であるこの国内で、有事があるはずもない。も十分承知の上だ。それでも、そうに告げるのが、いつも淡泊な態度のが垣間見せる、彼なりの優しさ。
 はこうやって優しい言葉をかけられるたびに、むず痒いような気分にさせられる。恥ずかしさと嬉しさが入り交じって、何と答えたらよいのかいつも悩む。が自分をいつだって気にかけてくれていることは、自惚れではないかと言われようがよく自覚している。でも、彼はそれを分かり易く表に出してくれる性格ではないから。
 恐らくむず痒いのは、口にするも同様だろう。証拠にの口元は、苦虫を噛み潰したように歪んでいる。不機嫌とはまた違った表情だ。
 偶の彼の分かり易い優しさなのだから、こちらも可愛く答えてやりたいと思う。だが、今日もやはり、上手な返答が思い浮かばない。嬉しいとは素直に口に出せず、を見上げて笑った。
 

「わかってますよ。」

 

 

 さて、儀礼的な拝謁を済ませ、は賑やかな通りに出た。明日西王母に拝謁を済ませ仕事をもらうまでは、久しぶりに肩の力を抜いてゆっくりできる。不在だった師父に挨拶を済ませたいが、陽が落ちるまでは難しいかも知れない。そうなると、ここで時間を潰すのが一番良いのだが。
 

(羅漢にでも会ってこようかなあ…。)
 

 馴染みの青年の顔を思い浮かべ、天を仰ぐ。太陽も一番高いところを越えた頃だ。彼も昼食が未だならば、一緒にご飯を食べてゆっくり話すことができるかも知れない。
 ひとりでうんうんと頷いて、彼の居そうな場所へと足を向けようとした。その時だ。
 どん、と自分よりも随分と体格の良い男に肩をぶつけられた。思わずよろめいて道の端までたたらを踏む。
 

「っ!悪いな!!」
 

 だがぶつかってきた相手はに顔を見せずそう告げただけで、勢いを緩めることなく行ってしまった。は近くの壁に手をついたまま、怒るのも忘れてその人影を見送ってしまう。その後ろ姿に、はて、と思い当たる前に今度は壁についた手と逆の腕を引っ張られた。身体がふわりと浮かんだような錯覚を覚え、慌てて地面に足を付ける。
 の腕を引いた人物は、先の当て逃げと違ってちゃんとその場に留まっていた。しっかりと合わされた襟を追いかけて顔を上げると、帽子で影になり、威圧感を増した顔が自分を見下ろしていた。その顔に、は怯むのではなく みるみる顔を輝かせる。
 

「師父!!」
「大事ないか、。…済まなかった、お前が帰るまでには部屋に戻りたかったのだが、あの、悪たれが!」
 

 労るように腕を引いた手での肩を撫で、それでも彼の師父―鐘離は険しい目つきで人影が消えた方を見た。はと言えば、鐘離の言葉や怒り心頭の顔を見て、先の人影のことも、なぜ師父が部屋で出迎えてくれなかったのかも何となく察してしまった。
 苦笑を浮かべ、は鐘離の袖を掴んだ。彼を引き留めるのではなく、言葉を告げるのに少しだけ、意識を向けてもらうために。
 少し怒りを静めた顔で弟子を見下ろした鐘離に、は穏やかに言う。
 

「あまり怒ってあげますな。」
「お前と違って何度頭を掴んで言い含めても覚えが悪いのだ、あれは。…晩には部屋に戻る。」
「はい」
 

 にこりと笑ったに、鐘離は微かに眼を細めた。きれいに整えられた弟子の髪をひと撫でして、人影が消えた方へ足を向ける。最初は落ち着いて足を踏み出したものの、が見送っている内にそれは駆け足へと変わる。師父の後ろ姿が消えてしまった雑踏の向こうを名残惜しく見つめていると、不意に背後に気配を感じる。
 

殿」
 

 名を呼ばれ振り返れば、黒髪の青年が自分に向かって頭を垂れている。
 

「藍采和様がお呼びです。おいでくださいませ。」
 

 分かりましたと頷けば、青年はすっと踵を返して歩き始める。その後ろに続きながら、は頭の片隅に当初会いに行こうと思っていた青年の姿を思い浮かべる。昼食も下手をすればお預けだし、彼に会えるのも明日以降になりそうだ。
 師父の顔を見れただけ、良しとするべきなのだろうか。前を歩く青年には気付かれぬよう、はひっそりと溜息を溢した。

 

 

 

 

(081202)
八仙ってフツーに弟子とるのかなーとか思ったんですが藍さまの例があるので
まいっかー、と(笑)正式な鐘離の弟子が出て来たらまた考えます(…)
ちなみにお迎えの青年は藍さまの右にいた文官系のオールバックのお兄ちゃんのイメージです。
(聞いてないよ!)