瑠璃鶲のみる世界 2

 

 視界にふわりと沓が入り込んだ。重さを感じさせない足取りに、自然と采和は口元を緩ませながら視線を上げる。
 

「参りました、藍さま。」
 

 そこには陽に透かした翡翠のような髪の、華奢な少年が立っていた。自分とそんなに目線の変わらないこの少年、を、采和は好ましく思っている。確かに見上げる必要はあるが、一葉や鐘離ほどではない。それに何より、彼の髪の毛は下から見上げた方が光をいっぱいに吸い込んで艶々と美しい。一葉らはこの美しさを知らないと思うと、微かな優越感すら覚える。
 自分を見上げながら表情を緩める采和に、は首を傾いだ。きれいに切りそろえられた前髪が、それとともにさらさらと流れる。そうして不思議そうに口を開いた。
 

「藍さま。」
「! ああ、すまん。」
 

 謝罪を口にしつつ、采和はに椅子を勧める。彼は生真面目に足を揃え、一礼してから腰を下ろした。
 

「帰ってきたばっかりだったんだってな。知ってたら明日にしたのに。」
「いいえ、構いません。他ならぬ藍さまのお呼び立てとあらば、喜んで馳せましょう。」
 

 いつの間にか運ばれてきた茶に口を付けながら、が微笑む。そうすると、采和とはまた違った「少年らしくない」顔になる。
 言葉も笑顔も、そのまま茶と共にすんなり臓腑に飲み込んでしまえたら幸せだろうが、生憎そうはいかないことも采和は知っている。お世辞、とまでは行かずとも、彼はなかなか本心を口にしない。例えば今の言葉だったら、「他ならぬ」とか「喜んで」とか、その辺は怪しいところだ。
 まあ、嫌われてないのだからいいか、と自分なりに咀嚼して、采和はひとつ頷いた。茶を一口含み、を見つめる。彼はその間も、真っ直ぐとこちらを見つめていた。
 

「蓬莱にはもう行ったのか?」
「ええ、さきほど。明日は西王母に拝謁いたしますよ。」
 

 くすくすとおかしそうにが笑う。先程の微笑とは違った笑みに、采和が片眉を跳ねさせた。は采和の表情の変化をどう受け取ったのか、すっかり弧を描いた口を袖で隠しながら言う。
 

「疑っておいでですか?大丈夫ですよ。ぼくは師父に頭を掴まれたくはありませんもの。」
「なんだ、知ってんのか。」
「つい先程、当て逃げをされた後に頭からぽこぽこと湯気を立てた師父に会いました。」
 

(鐘離のやつ、まだ怒ってたのか…。)
 

 采和の目が据わる。いつものことなのだから、そういつまでも腹を立てていては身がもたないだろう。それに、折角仕事を終えて帰ってきた弟子を怒ったままに出迎えてどうする。暫くぶりに会う師父がいつまでも別件で怒っていたら、彼がいたたまれないではないか。には全く否がないのだから、偶にはあの仏頂面に笑顔のひとつやふたつ浮かべて出迎えってやればいいのに。
 そこまで考えて、采和はいつもの鐘離の顔を脳裏に描いてみた。それを、無理矢理笑顔にしてみて、少々後悔する。あまり思い描きたくなかったそれを打ち消してくれたのは、控えめに響いた彼の声だった。
 

「…それで、一葉にはまだ会えますか?」
「呼び出した理由はそれだ、。」
 

 本当は、驚かせてやりたかったのだ。は一葉とは真逆で、身分でしっかりと線引きをする。だから、自分に対してはいつも一歩退いていて、一葉たちに対するような気易い態度で対応してくれることはほとんどない。
 だからこそ、彼が帰っていることを自分が一番に教えてやって、驚くの素の表情を見たかった。あてが外れて、表情には出さないものの采和は残念でならなかった。
 それでも、は普段よりは格段無防備に嬉しそうな顔をした。采和の言葉から、自分の希望が叶う事を察したのだ。
 

「今から会えるか?」
 

 言いながら采和が立ち上がると、も倣う。自分の傍に彼がやってくるのを一拍待ってから、采和は歩き始めた。もういい加減、鐘離も追いかけるのを諦めた頃だろう。一葉ひとりならば、静かに顔を合わせられるはずだ。
 廊下を進みながら、ちらりとを盗み見た采和はふと今更な事に気付いた。彼の傍に、誰も居ない。脳裏に、尊大で嫌味たらしいひとりの男が浮かぶ。
 

「今日は居ないのか?あいつ。」
「ええ、東へ向かう際に別れてきました。帰り道に藍さまにお誘いいただきましたので、そのまま。」
 

 藍さまの所に来るだけなら、あれも来たかも知れませんね。はそう続けて、廊下の窓の外、眼下に広がる庭園を見つめた。
 采和といえば、ふったのは自分なのに別に来ないなら来ないでいいと鼻を鳴らす。
 の斎に宿る神は、誰にも傅くことのない、矜持の高い奴なのだ。何度か采和も顔を合わせているが、まともな会話はおろか、ちゃんと目を合わせたこともない。ただひとりに身を委ねている。
 それでも気にしてしまったのは、何かとこちらに向ける敵意につい敏感になってしまっているからだ。どうやら彼は自分のへの態度が気に入らないようで、目を合わせることはないくせによく睨み付けてくる。もちろんそれに臆する采和ではないが、あからさまな敵意をぶつけられて気持ちのいいものではない。
 

「申し訳ありません、あれの心無い態度の所為で藍さまを不愉快にしてしまって。」
 

 いつの間にか足を止めていたが謝る声に、采和もつられて足を止めて振り返った。いつの間にか数歩分の距離が彼との間にできていた。
 気にするな、と采和が首を左右に振る。本当に、を気遣わせるために口にしたわけではないのだから。
 

「気にするな。あいつが以外に心無いのは今更だろ。」
 

 <神に愛されし子>。を指す名以外の言葉だ。「歌士になる前からあの神はの傍に居た」と、真偽の程は定かではないが、一部では有名な話である。
 噂がなかなかかき消えることがないのは、まずが歌士になって間もなく彼を斎に宿り移させたこと。そして、彼のとそうでない者へのあからさまな接し方の差が、と関わりない者にまで知れ渡るほど有名なこと。このふたつに尽きる。極めつけ、彼は尊大で態度も悪いが、力は確か。むしろ、巨大すぎるものを持っている。
 

「今に調教師に引き渡してしまうぞ、と脅してるんですけれど…どこふく風で。」
「はは、あれが調教師に引き渡されたらその建物の周囲が全部消し炭だろうな。」
 

 安易に想像がつく。辺りは草木一本生えぬ荒野に成り果てるだろう。だが、頬に手を当て、微かにくちびるを尖らせながら言うは、どうやら本気で彼の神を脅しているようだ。
 学舎での成績も優秀、踏々歌もうまい。一葉とは対極に居るような優等生の歌士、。彼らの共通点といえば、厄介な神を抱えていることだ。無論、彼らの仲の良さはそれだけが理由では無いだろうが、彼らふたりが並んでいるとまるで脅して金品を巻き上げる不良と、哀れ餌食になった育ちの良さそうな少年だ。見ている方としては、無理矢理にでも共通点をひとつくらい見つけておかないと腑に落ちない。
 

「藍さま」
「…うん?」
 

 再び歩き出した時、に名を呼ばれ采和は彼を見上げた。は采和を見下ろしているのに、眩しそうに笑う。
 

「ありがとうございます。一葉のことを教えてくれるために、お呼びくださって。」
 

 それ以上は、のことを見ていられなくて、采和はおうとかうんとか適当な返事をして前を向いた。全く、恥ずかしくていけない。
 こんな顔はあの不肖の弟子には見せられないから、そうだ、遠回りでもしよう。と連れだって歩きながら、采和は自分に都合の良いように思考を完結させた。何をするわけでも話すことがあるわけでもないが、もう少しくらい、彼とふたりきりで歩くのも悪くない。

 

 

 

 

(081202)
視点も違うんですけど場面的に続いてるし、
主人公のこと前のだけでは分かりきらないので続き物ということで。
藍さまは主人公のことが大好きです(笑)