五輪代表なんて、みんな驚いたけれど、当の自分が一番驚いた。監督に嬉しくも憎たらしい言葉を贈られ、メンバーからの手荒いエールを受け取って、俺は準備をするためにグラウンドを離れる。
建物に向かってひとり歩いていると、うしろからすっと自動車が近付いてきた。併走するように自分の横を通り過ぎた車は、俺の数歩先でぴたりと止まる。運転席の窓が開いて、犬が顔を出すように、人がこちらを振り返った。
「赤崎、今から準備か?」
「さん!…もしかして、もう知ってるんですか?」
「有里ちゃんからさっき連絡あってさ。俺もいろいろ準備手伝わなきゃいけないだろうからって帰ってきたワケ。」
おめでとう、と俺に向かって笑ったのはさん。普段後藤さんの手伝いをしているクラブのスタッフのひとりだ。
彼からおめでとうと言われたのがとても嬉しいのと同時にすごく気恥ずかしくて、俺は顔が緩みそうになるのをなんとか留めながらぶっきらぼうに返事をする。本当は、椿のように身体も表情も声も、まさに全身を使って嬉しさを表したいけれどどうも自分のキャラではない気がする。かといって、ウィットに富んだ(というか本当に変なのかも知れないが)王子のような切り返しが出来るわけでもない。
どうにももどかしいのだ。俺はこの人を前にすると、どうもいつものようにずけずけと言いたいことを言えなくなってしまう。
ちょっとゆっくり歩いてて、と言い置いたさんは再び車を発車させた。向こうの、建物の入り口付近に改めてちゃんと停車させてから、車から降りてこちらに足早にやってきてくれる。
「GMも監督も、喜んでたろ。なんてたって代表選手だからなー。」
「そうっスね。」
そうやって並んで歩けば、ふわふわとしたさんの髪の毛がちらちらと視界の端に入り込む。スポーツマンとは違う華奢な外見は、実年齢よりもずっと若く見えてしまう。メンバーや、他のスタッフには居ないような雰囲気の人だ。
父親が結構有名な元サッカー選手だったというのもあるのかも知れないが、俺達に対する理解もあるし、他のスタッフ達とも仲が良い。達海監督がやってきてチームが今の雰囲気に落ち着くまでは、フロント陣とチームの潤滑油的な役割もしてくれていた。誰とでも直ぐに打ち解けられる、不思議な魅力を持っていると思う。
「これからいろんな人に知れ渡って、今日辺りはそこらで大宴会かもな。」
俺の隣で楽しそうに笑うの見て、思考の最後に「多少の欲目もあるかも知れない」と、付け足しておく。いろいろなことが積もり積もって、だろうが、俺はいつの間にか随分とこの人に惚れ込んでしまっていた。もちろん、そんな気持ちを馬鹿正直に他の奴らに、ましてや本人にいう事は出来ず、事ある毎にこうやってぐるぐると自分の中で葛藤を繰り返している。
「…さんも、」
「うん?」
「嬉しいですか?やっぱり、チームから五輪代表が選出されると。」
今日もやはり、俺は随分と遠回りな問いをやっと口にした。本当に訊きたいのは「俺が代表に選ばれて、さんも喜んでくれますか?」だ。それでも、握りしめた拳はうっすらと汗ばんで、少し心拍数も上がっている。こんな軽い一言を聞くくらいで、なんて情けない。試合中だってもうちょっとリラックス出来ている。
俺の中の目まぐるしい葛藤や緊張など微塵も知らないで、さんはこちらを見て大きく頷いた。外見に似合わないオッサンくさい動作で、俺の背中をばしばしと叩く。
「当たり前だろ?お前らが認められたってことだし、ETUとしても知名度が上がるし…あ、赤崎もファンが増えるんじゃないか?」
最後にそう付け足してくすくすと笑うものだから、俺は思わず渋面になった。ついさっき、同じ様なことを王子に言われたばっかりだ。もっとも、王子は俺の人気がまるで全くないかのような口ぶりだったけれど。
確かにファンがひとりもいないとか、いてもクロさんみたいに強面の男ばっかり、とかはちょっと困る。けれど、別に俺にだってキャーキャー歓声をくれる可愛い系のファンがいないわけではない。監督が替わってからスタメンにも定着してきて、雑誌に載せてもらえる機会だって増えているのだ。
それになにより、王子と似たような内容の言葉を、他でもないさんに言われたというのが俺を複雑な気分にさせる。無論、もうファンが増えなくても良いのになんて趣旨のことを言ってくれるはずもないのは分かっているけれど、こうも諸手を挙げてファン増加を喜ばれるのも、全く眼中にありませんよとでも暗に言われているようで悔しい。
「…赤崎?」
「…っ、ス。王子にも同じこと言われたなって思って。俺ってそんな人気ないように見えますか?」
名前を呼ばれて我に返って、俺は内心慌てて取り繕った。さんは俺の言葉にあからさまにしまったと言う顔をして、両手を左右に大きく振る。いやそうじゃなくって、と急にわたわたとフォローを始める彼にやっと笑顔を浮かべることができた。彼に悪意がないことを知りながら、意地悪な切り返しをしたのは少し申し訳ないと思う。
相槌を打っているうちに饒舌になってきたのか、さんの言い訳は、次第に王子に対する悪態に変わり始めた。時々俺に同意を求めてくるものの、俺がはっきりと首を縦に振れるはずがない。俺達以外に人影が見当たらないと言っても、どこからどうバレるかわかったものじゃない。
それにしても、王子本人がここにいたなら一気に不機嫌になってしまいそうだ。あの変わり者の王子様ですら、さんのことは特別気に入っているのだ。今の俺からしたら「ざまあみろ」とでも言ったところか。
「まあ、とにかく、頑張って来いよ。悔いの無いようにな。」
最後にゴホンと咳払いして仕切り直してからそう言ったさんに、頷いて返す。その時丁度、俺達は建物の前に辿り着いた。
「赤崎、…その、俺、」
おずおずと、今までとまるで違うトーンの声に、思わず顔を向けた。足を止めて俺を見つめているさんは、見たことのない表情をしている。
歯切れの悪い言葉と、何かが喉に引っかかったみたいな微妙な顔。いつも怒ってるか笑ってるか、とにかくはっきりとした喜怒哀楽を浮かべる彼にしては珍しいことだ。
俺もつい、背筋を伸ばし気味に向き直った。首を傾げる。
「何スか?」
「…あ、いや、」
だがしかし、さんは俺の視線を受けて眉間に皺を刻んで頭を振った。
「いや、やっぱり、何でもない。」
強い口調でそう言いきって、ぱっと笑顔を浮かべたさんは俺の背中を押して建物の中へと入る。背中を押されて足がもつれそうになりながら何とか前へ進んで、俺は狐につままれたような面持ちになる。
言いかけた言葉を無理矢理止めてしまったあとのさんの笑顔が、どうにも無理していたように見えてならない。本当は、というか今もさんは言いかけた言葉を喉まで迫り上がらせたままなのではないか。
妙な確信があるのは、俺がいつもそうだからだ。さんに対しているときは、よくそういう状態になる。言いたいことを上からぎゅっと押さえつけて、別の言葉を言うのだ。
でも、もし俺と同じなのだとしたらさんは一体俺に何を言いたいんだろう。ファンサービスとか、いつかの俺の態度に対する小言とかを言いたいけど、目出度いムードだから自重してくれたとか。そうやって考え始めると、どうしてもネガティブな方へと思考が落ちていきやすい。
「じゃあ、俺書類とかそういうのの整理あるからさ。」
「あ、はい。」
「何かあったら、呼んで?手伝うし、車も出すから。」
「ありがとうございます。」
頭を下げれば、照れたような顔をしてさんは片手を上げる。俺がロッカーへ歩き出すと、後ろで部屋に入ったのかドアが閉まる音がした。
ひとり、静かな廊下を歩いていると、ますますネガティブな思考が強くなる。ロッカールームが近付く頃には、「もしかして嫌われるようなことをしたんだろうか」とか「まさかクロさんたちからロクでもないデタラメを吹き込まれたんじゃないか」とか、そんなところまで考えてしまっている自分がいて、また嫌になる。
さっきさんが言いかけた言葉を、しつこいと思われても良いから聞き出しておけば良かった。今更のように後悔する。後悔や、どうしようもない憶測なんかが全部肺の中に渦巻いて、俺は喜ばしい時のはずなのに盛大な溜息を吐く。
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