暗くなり始めたテニスコートに、が見つけた人影。足を止めて、歩み寄るべきか迷う。良く知った人物の、背中を丸めて座り込んでいるその様子で粗方何があったのかわかってしまったから。
近付くべきじゃないのかも知れない、と思う。例えば自分がああいう状態だったとして、声をかけられて平気かどうか。であれば、すごく人による。
しかし、とは首を傾げた。でも、もう帰らないと。もう、夕方だし、それにいつまでもこんな所にいたって何にもならない。感傷に浸ることが悪いことだとは思わないし、自己嫌悪するのだって、後悔するこのも、別に良い。けど、そういうのは、
(俺の視界に入らないようにやってくれよ。)
気付いてしまったら、気になって仕方ない。は躊躇いを断ち切るように大きく息を吐き出した。
「だいじょーぶか?」
真っ直ぐ人影に近付いて、顔を覗き込む。
左頬を押さえてじっと前を見つめていた赤也は、その声に顔を上げた。割合、普段の赤也は人の気配に敏感なのに、今に限っては違ったらしい。初めて気付いたらしく、アーモンド型の目を真ん丸にしてを見上げてくる。
「…先輩」
「弦一郎に殴られたか?…あーあ、真っ赤じゃん。アイツは限度知らねぇからな。」
「オレが、負けたからっスよ…」
立海大付属は負けてはならない。たとえ野試合だろうがなんだろうが。
赤也もそれが判っているからか、殴られたというのに呆然としたまま、いつもの覇気の欠片もない。尊大な態度も、いつもの減らず口もすっかり態を潜めてしまっていた。
言葉少なにまた黙り、俯いてしまった赤也の海藻頭を見下ろしたは眉を歪めた。
「…調子狂うな。」
「え」
赤也の横に腰を下ろし、まじまじとこちらを見つめる後輩には苦笑する。
青学のルーキーに負けてしまったらしいと、真田や柳達に聞いた。まだよくわからないが、不動峰の橘でさえ倒してしまった赤也が負けたのだから余程の事だ。目も赤く、充血していたと言っていたのだからそこそこに本気だったんだろう。
ちなみにはそれを聞いたから赤也を探していた、と言うわけでは無い。仇を取ってやろうとか、そうやって憤ったわけでもない。そんな殊勝なのはの趣味じゃない。
ただ、そう、自分は不在で碌に成り行きを見ることが出来なかったから、余韻みたいなものを探して歩き回っていただけだ。見つかった余韻といえばコートの中に座り込んだ後輩一人で、とてもじゃないけど浸れるようなもんじゃなかった
けれど。
「いつもみたいに少し命知らずなくらいにふてぶてしい方がお前らしい。」
「随分な言われようっスね。」
「仕方ないだろうが。いつもいつも、巻き込まれる俺の身にもなってみろってんだ。」
自分の気遣いのきの字もない言葉に、赤也の表情が少し明るくなった。心の中でそっと、安堵する。
根掘り葉掘り聞いた所で自分にはどうすることも出来ないし、先程から繰り返すようにどうしてやろうとも思ってない。ただ、辛気くさいのも沈んだ空気も好きじゃないし、いつもと勝手の違う赤也は調子が狂って気持ち悪い。だからせめて、彼の気分を和らげてあげられればと思った。
さっさと調子でも何でも取り戻したらいい。赤也のくせっ毛をかき混ぜて、つとめて明るく笑ってやった。
「止めてくださいって……そういえば、」
「何だよ?」
自分の髪の毛をぐちゃぐちゃにしていくの手を掴まえて、赤也がくちびるを曲げる。そうして手を止めて首を傾げるをじっと見つめた。
「先輩、ドコ行ってたんスか?」
放たれた何気無い赤也の疑問に、は表情を固まらせる。
真田達が駆けつける中、の姿だけがなかった。普通だったら一番にバカにするか、手荒だけど慰めてくれるかなのに。特に後半を心の片隅で期待していた赤也にしてみれば、姿が見えなかったのが不思議だったのだろう。
道理といえば道理の問いに、しかしは固まったまま口を開きもしなかった。分かりすぎるくらいにありありと、表情が変わってしまった。少しずつ調子を取り戻しつつある赤也ならばそんな不自然を見逃したりしないだろう。
しまったと思っても、後の祭り。案の定、興味津々という風に目を輝かせた赤也は、自分に向かって身を乗り出した。態と拗ねたような表情を作る。
「オレ、先輩に1番来て欲しかったのに、いねーんだもん。」
「う…」
「真田副部長とも、柳先輩達とも別行動してたんスか?」
「あー……」
きょろきょろと忙しなくの目が泳ぐ。必死に言い訳を考えようとするものの、完全に虚を突かれてそういう小賢しいことを考えるための思考が停止してしまっていた。なんとか誤魔化して逃げ出したいが、計算し尽くしたことなのか、いつのまにか右手は赤也に捕まっている。
「…先輩」
先程までのこちらの調子が狂うくらいの落ち込み具合はどこへ行ってしまったのだろう。赤也はを見つめ、にんまりと笑った。もうすっかりいつも通りの憎たらしいばっかりの後輩だ。
そう、今だってもう十分なくらい憎たらしい。の顔がはっきりと強ばるのを見て、尚楽しそうに笑うのだから。
「またみんなに内緒で幸村部長の所に…」
「わー!わー!!!」
言いかけた赤也の口を、空いている左手で慌てて塞いだ。呆れた様に目を細めて、赤也がその左手をどける。
「塞がなくたっていいでしょうが。誰もいないんスよ?」
俺を窒息させたいんですか。
刺々しい赤也の視線を頬に受け、は低く唸った。寧ろ、窒息してしまえと思ったのは内緒だ。これだけ睨み付けていれば、言わなくても伝わっているかも知れないが。
赤也の言うとおりこの場には誰も居ないから、確かに口を力一杯塞いでやる必要は無かった。言葉になって紡がれるのがむず痒かったけれど、赤也も含め部員全員が知っている事だ。
何時も尊大で柄の悪いは、本当は誰よりも繊細だ。それに。
幸村精市にとても依存している。
『は幸村相手には甘くなるな。』
以前、真田がどこか羨ましそうに幸村に言った時、彼が得意気に微笑んだのを覚えている。その時ふたりの間に挟まっていたは、何も自分の目の前でこんなやり取りをしなくたって、といたたまれない気持ちになったものだ。
はで幸村に依存しているし、幸村は幸村でに甘えられることを嬉しく思っている。だからは知らず幸村に甘えるし、幸村は自覚の上で多大にを甘やかして優しくしてあげる。そんな風に、ずっとと幸村は過ごしてきた。どうにもならないんだろうとは最近諦めにも似た気持ちで、これについて考えることを放棄しがちだ。いいじゃないか、と思ってしまうのだ。だって自分は困ってないし、幸村も困ってないように見える。
だから今日も今日でつい、学校を抜け出していつもの病室に顔を出してしまった。
赤也がいきなり野試合を始めたとか、そういうのがよっぽどイレギュラーなことで、いつもであれば誰も気にも留めなかったはずだった。
(分かっちゃいるんだけど、誰かに認められると恥ずかしいんだ。ちくしょう、)
顔が熱い。多分、頬は赤くなっていることだろう。面白く無さそうな赤也の目は、そんな自分の変化をじっと観察しているのだ。
「不在の部長にしてやられるっつーのも何か無性に腹立つっス。」
「?」
何とか平常心を取り戻そうとしていたら、辛うじて耳が拾った赤也の呟き。には言葉の意味がわからず、ただ怪訝な表情を浮かべることしかできない。
そんなの目の前で、赤也は分かり易く溜息をついた。
「アンタって、いっつもそうだ。」
が俊敏に察知するのは9割方テニスの事だけで、それ以外には驚く程興味がない。無知もいいとこだ。
には勿論伝わっていないけれど、それが赤也にはもどかしい。まだ、付き合いが浅いからなのか、真田達のように悟りきって静観することも出来ないし、割り切れもしない。拗ねたって、怒ったって、は「機嫌悪いの?」くらいにしか思わない。その理由を考えることもしてくれない。報われないのに。
それなのに、は何時も気を保たせる。今日だって、目聡く赤也を見つけて、付かず離れず慰めてくれた。
「あーもー…!先輩、オレ、スゲー沈んだんで身体で慰めてくださ」
ガッ
「海の底まで沈んで昆布になってしまえ。」
「〜!せんぱ、グリップの角は反則っス…」
ばからしいいつもの言葉で、すっかり調子が戻ってしまった。は今まで解けもしなかった赤也からするりと逃れ、傍らに置いていたラケットで一撃をくらわせた。グリップの角になってしまったのは偶々だ。
後頭部を押さえて屈み込み、赤也が涙声で訴えるのを聞きながらは鼻を鳴らした。
「うぅ…オレ泣きそ……」
「勝手に泣け。」
「んな…」
「俺は今から5分間仮眠とるからな。」
「へ?」
赤也がうっすらと涙がにじんだ目でこちらを見やる頃には、テニスコートにごろりと横になっていた。赤也から身体ごとそっぽを向いて背を丸くする。後ろの気配が気になりつつも、もう何も受け付けないというポーズをとる。
「いいか?俺は早く帰りてーんだよ、5分してまだその辛気くせぇ顔晒してたら」
「…たら?」
「……置いて帰る。」
もっと辛辣なことを言ってやりたかったけれど、もう何も思いつかなかった。途中何故か責められたけど、そもそも自分は赤也にちょっかいを出しに来たのだ。調子のない後輩は自分にとっても気持ちが悪いし、少しでも気分を和らげてやろうと思って。
背を向けたからは見えなくなった所で、きょとんと間の抜けた顔をして直ぐ、赤也が嬉しそうに笑った。悔しいやら痛いやらなにやらで泣きたい気持ちも多大にあったのだけれど、それを補って余りある嬉しさで顔が勝手ににやけてしまったのだ。
「先輩ー…もう愛しちゃってますよ、俺。」
「フザケロ」
ケッ、とまるで悪役のような悪態を吐いて、は無理矢理目を瞑った。 |