甘えた言い訳

 

 夜、夕食を済ませてから、適度に気の抜けた服装では家を出た。ひやりとした外気温は、身体をいい具合に冷ましてくれる。しんと静まりかえった住宅街を1分ほど歩いて、は目当ての場所にたどり着いた。物心ついてから十数年、それこそ数え切れないくらいに訪ねた場所だ。
 自分の家の玄関をくぐるような気軽さで、は花井家に足を踏み入れた。そして、挨拶も何もすっ飛ばして、玄関から大声で叫ぶ。
 

「あーずーさーー!!」
 

 その声にまず顔を見せたのは梓の母だった。台所から顔を出すと「あら、ちゃん久しぶりねえ」なんて笑って、また直ぐ引っ込めてしまう。「お邪魔しまーす」と悪びれもなく笑って手を振って彼女に応えていると、直ぐにどたどたと階段を下りてくる音が聞こえた。
 玄関までやって来た梓は、スウェットの上下に頭にはタオル、顔にはメガネといったスタイルだった。大方、宿題でも片付けていたのだろう。やっぱり彼も、彼の母親と同じように怒ることなく気易い笑顔を浮かべる。
 それに片手を挙げてから、は靴を揃えて家の中に入る。玄関を上がって立つところが同じになってもなお、まだ高い場所にある幼馴染みの顔を見上げた。
 

「どうしたんだよ」
「うん、あのさ、現国とグラマーの教科書持ってない?」
「お前のは?」
「学校に忘れて来ちゃってさあ。」
 

 たははと笑って後頭部をかく。学校に忘れた、というのは実は嘘だ。本当は、学校の机の中に入れっぱなしにしている。宿題があるときやテスト前などだけ、いつもは薄っぺらい鞄に入れて持ち帰っているのだ。だが、今日は宿題があるのに持ち帰るのをすっかり忘れてしまっていた。宿題を明日朝練の後に更に忙しなくする、と言うのはあまりやりたくない手で、それならばと思いついたのが幼馴染みの顔だ。
 

「…ったく、ちゃんと持って帰んねーからだろ。」
「あは」
「いいよ、持ってくるから居間で待ってろ。あ、そーだ、ついでに借りてた雑誌も返すから。」
 

 あっさりばれても結局は直ぐさま頷いてくれる梓が、は大好きだった。甘えていると言われるとそれまでなのだが、普段はやたら溜め込んでいたり奥手だったりするこの幼馴染みが、自分にだけはまた違った面を見せるのだ。優越感とでも言おうか、この気持ちを時々確認する度に、の気分は高揚する。
 ありがとう、と礼を言って、ひらひらと背中越しに手を振って階段の方へ消えていった梓を見送って、は高揚した気分のまま居間への敷居を跨ぐ。
 夕食がすっかり片付けられたテーブルには、マグで何かを飲みながら話している飛鳥と遙がいた。ふたりは梓の妹で、ひいては自分の妹のような存在だ。どんどん大きくなって、女の子らしくなっても相変わらず懐いてくれる、かわいいふたり。一人っ子のにしてみたら、いくらでも甘やかしてあげたくなる存在だ。
 ふたりはぱっと同時にを見て、まるで花が綻ぶように笑う。玄関で最初に張り上げた声も、梓と交わした会話も聞こえていただろうから驚いた様子はない。
 

くん!」
「こっち、きて!」
 

 ふたりに手招きされるようには大人しくテーブルにつく。直ぐに遙が椅子から降りたって、台所へ消えたかと思うと新しいマグを持ってきた。はい、と声と共に目の前に置かれたマグからは緑茶のいい香りがした。それを両手で挟むタイミングで、向かい側に腰掛けていた飛鳥が椅子の上に膝立ちをするようにして身を乗り出してきた。
 

くんってば最近ぜんぜん遊びに来てくれないね!」
「…え、そうだっけ。」
 

 飛鳥の剣幕にたじろぐように、が少し上体を反らしながら首を傾げる。自覚のない返事に、飛鳥が頬を膨らませた。隣では、遙が飛鳥の言葉に何度も頷きながら、腕を組む。
 まさに孤立無援のは、飛鳥に曖昧に笑いかけたりしながら必死に前に彼女たちに会った日を思い出してみる。確かに、ここ最近花井家に来ることがなかったような気がする。花井家に来ないとほぼふたりに会うこともない。もしかすると、一ヶ月以上会っていなかったかも。
 

「お兄ちゃんは学校で毎日会えるからいーけど、私たちだって、くんと会いたいんだもん!ね、遙!」
「うん、お兄ちゃんに言っても全然連れてきてくれないんだもんね。」
 

 梓とは毎日学校で何かしら顔を合わせる。顔を合わせれば、彼女たちの話も聞く。それに、会うときは毎日のように会う。
 だからこそ、には「久しぶり」と言う感覚が薄かったのだろう。ふたりがこんなに強く言ってくる方が意外だった。
 ついでに、梓に自分を連れてこいと言っていることにも驚いた。彼は学校でもそんなことを一言も言っていなかった。ふたりの話を冗談半分で聞き流していたのか、幼馴染みに対する変な遠慮があったのかは分からないが、伝えるだけでも伝えてくれたらいいのにと思った。梓にちょっとした用事で会いに行こうかと考えることもあるが、あまりにくだらない用事すぎて思い止まることもある。
 

「お兄ちゃんね、言ってたのよ。くん最近学校の外にも友達が増えてるから、って。」
「あ、言ってたー!そんなの理由にならないのに。」
「そうよねー。お兄ちゃんがフガイナイせいじゃないの?」
 

(ふ、不甲斐ないって…梓…)
 

 随分辛辣なふたりのやり取りに、自分のことではないのに背筋が伸びてしまう。妹たちに「不甲斐ない」と言われてしまった梓に同情する。同時に、彼女たちの口からまさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。いつの間にか成長しているんだなあ、なんて的外れな感想を抱く。
 

「ごめんね、遙、飛鳥。」
「いいの!くんは悪くないんだから。」
「お兄ちゃんが悪いの!」
「そ、そうでもないって!梓が悪いんじゃないよ。」
 

 このままではどんどん梓が悪者になってしまいそうで、は慌ててフォローに回った。少し、遅すぎた感もあるが、それでもに懐いている飛鳥と遙は、くちびるをふたりして尖らせて不満いっぱいな表情をしながらもしぶしぶ頷いた。
 そのタイミングで、また階段を下りてくる梓の足音が聞こえてくる。足音はぺたぺたとこちらに近付いてきて、やがて3人がいる部屋へと当人が顔を出した。部屋に流れる微妙な空気―つまりジト目で見上げてくる妹たちと、引きつり笑いで出迎える幼馴染みに気付いた梓は眉を寄せた。
 

「どうしたんだよ。」

 

 

 梓が教科書と雑誌を持ってきてくれたので、早々にお暇することにした。のんびり4人で喋るのも久しぶりで楽しそうだが、いかんせん宿題が残っている。その為にわざわざ教科書を借りに来たのだ。
 教科書と雑誌を抱え、飛鳥と遙に手を振りながら立ち上がると立ちっぱなしだった梓もずるずるとついてきた。そのまま、が靴を履けば自分もつっかけに足を入れて外に出てくる。後ろ手に玄関の扉を閉めながら、家の前の道路まで出たところでお互い何となしに立ち止まって顔を見合わせた。
 本当に、何気なく一緒についてきたのだろう。薄いスウェットしか着ていない梓は、寒さに小さく悲鳴を上げて身体を抱えて縮こまらせる。
 

「教科書、明日の朝学校で返すな。」
「おう」
「…あと、」
「?」
 

 切り出そうとして、思いの外じっとこちらを見下ろしている梓に開きかけた口を閉じる。
 相変わらず静かなご近所からは、笑い声一つ聞こえてこない。ドラマが始まるか始まらないかの時間だというのに、しんとして、真っ暗で、本当に人が住んでいるのかと疑いすら持ってしまう。
 

「あと、あんまり遙と飛鳥に変な言い訳すんなよな。」
「あ?」
「他校の奴らと遊んでるから会えないとか、なんとか…別にそれだけじゃねえだろ。梓は部活だって忙しいんだし、どっちかって言うと、そっちの方を言い訳にしたらいいんだ。」
 

 どうしようか少しだけ迷ったが、梓の見下ろしてくる視線の力に負けて結局言ってやった。始め、の言いたいことを計りかねて口をへの字に曲げていた梓だったが、次第に眉間の皺が深くなっていく。ついでに、そろそろと視線もそらされてしまう。
 言い訳の中身まで、逐一文句をつけたかったわけではない。でも、言い始めたらうまくまとまらない上に止まらなかった。
 他校のことを梓がふたりに会えない言い訳として使ったと聞いたときに、図星を指されたような気持ちになったのも事実だった。野球部がどんどんと強くなって、有名になる。その過程で、どうしてか自分も随分他校の、それも野球部の知り合いが増えた。それに伴って遊ぶ範囲が広がっていったから、休みの日に梓の元へ行く回数はぐぐっと減った気がする。それを後ろめたいことだと思ったことはこれまでなかったけれど、いざ指摘されてみると何だか後ろめたい気持ちになった。
 ついでに、梓だって今までのように気軽に遊べなくなったじゃないか、と逆に弁解のような言い訳が浮かんだ。中学の時よりも、もっと彼は部活に明け暮れるようになった。今年から新設された部活のようなものだし、人数も少ないから求められることも多いだろう。梓はしかもキャプテンを務めているのだ。が遊びたくても、梓の用事が合わないことだってたくさん、
 

「……悪かったよ。自分に対しても言い聞かせたかったんだ。」
「え」
 

 いつの間にか、は俯いていた。考えている内に頭の中が段々と混乱してきて、こちらから目をそらす梓を見ていられなかったからだ。
 だから、梓がそう言ったときに咄嗟に反応することが出来なかった。彼が発した言葉だとまず気付いて、中身を理解できないままに顔を上げる。梓は既に、を再びじっと見つめていた。眼鏡の奥の目は、やたら静かでの方が焦ってしまう。
 すっと視界の端を何かが横切った。顔を向けて正体を確かめる前に、の頭に梓の手が触れる。視界を横切ったそれは梓の手だったのだと、随分と遅れた調子で受け入れた。いつものように、彼の手は自分の頭を撫でる。地肌に触れた指先に、肩が微かに跳ねて、背中がが粟立つ。
 

(つめた。)
 

 もう身体が冷えるほどに、外に出ていたのだろうか。教科書と雑誌を受け取った時には、彼の手はそれなりに温かかった気がする。

 

 

 

 

(090520)
微妙な幼馴染み事情です(ぇぇ)
花井家にものすごい夢を見すぎでしょうか、わたし…(笑)