邂逅の時 1

 

 食事の片付けをしながら秀麗が父と家人を見ながら呟いた。
 

「ねえ、まだ兄様は帰ってらっしゃらないのかしら。」
「そうだねえ、あの子も忙しいから。」
 

 秀麗がいれてくれた茶を美味しそうにすすりながら、邵可が答えるとふうん、と気のない返事。親子のやり取りを見つめながら静蘭は困ったように笑っている。何か言いたいことがあるが彼らの手前控えている、と言ったところか。
 そんな彼らを燕青は不思議な気分で見つめていた。
 もうひとりこの家に住む人間が居ることには気付いている。今のように秀麗が「兄様」と、「帰ってこないかしら」か「忙しいのかしら」を一緒に口にするからだ。
 ちなみにこの家の前で倒れこみ、保護されて居候させて貰って五日は経つがその「兄様」にあたりそうな人物を見たことはない。
 

(なんとなく、だけどよ。)
 

 思い当たる、というか、予感できることが燕青にあった。
 彼が帰ってこないのはもしかして自分の所為ではないか、と。
 どうやら自分がここに来るまでは普通に家に帰っていたようだし、話を察するに文官らしい「兄様」は邵可が言うほど忙しい仕事を抱えているわけでもなさそうなのだ。聡い秀麗が何度も何度も帰ってこないのかと問うのだから、彼女は「忙しさ」に見当はついていないようだし。
 まさか家族の団欒を邪魔していたとは思わず、燕青は神妙な顔で頭を掻く。お嬢さま第一主義(であろうことはここ数日しか観察していない自分でも想像に易い)である静蘭がちくちくと文句を言っていないのだから表向きは燕青が原因ではないのだと思う。しかし、自分の所為ではないかと仮定すると辻褄が合うのだ。
 どうしたものか、と燕青は天井を仰いだ。既に秀麗たちの話題は今日の外朝のことに移っている。楽しそうに相槌を打つ邵可と静蘭を見ながら考える。
 勝手に出て行くことは簡単だが、何から何まで面倒になっている上秀麗と一緒に外朝で働いているのだ。それに、静蘭から彼女をしっかりと守るように睨みと一緒に言い聞かせられている。
 

「あ、そうだわ!」
 

 明るく響いた秀麗の声に、燕青は思考を中断させられる。彼女を見れば父と家人からも同じ様な類の視線を向けられて顔を輝かせていた。
 

「私、明日早起きしてお饅頭を作ろうかしら。府庫に持って行っておけば兄様も食べてくれるわよね?」
 

 最後の問いは邵可を見ながら。微笑を浮かべた彼はゆっくりと頷いて、秀麗を一層嬉しそうにさせる。どうやら「兄様」は府庫にいる確率が高いらしい。
 

(見たことねえんだけどなあ…)
 

 仕事の上司、仮面の黄奇人にこき使われて自分も秀麗も府庫には結構な頻度で訪れている。が、邵可や絳攸に会うことはあってもその他の人に会うことはない。けれども、と燕青は気持ちを新にする。彼女が饅頭でも持っていけば、府庫に出没するはずの「兄様」と会える確率は確実に上がるはずだ。そこを捕まえて、話し掛けよう。
 燕青自身に全く思い当たる節はないが、彼が帰って来れないのが自分の所為ならばその誤解をしっかりと解いて家に帰ってきて貰わなければ。秀麗を寂しがらせるのも嫌だったし、静蘭に自分の所為ではないのかと睨まれるのも御免だ。それに何より、燕青が「兄様」に会ってみたい。
 何となく無性に、そう思ったのだ。

 

 

 

 次の日から燕青は何かと府庫に顔を出すことにした。奇人から投げられてくる仕事は決して少なくなく、それらを疎かにしているのではさっぱり間に合わない。だから、自分なりに頭を働かせて府庫方面に顔を出す仕事をそれとなく選び取ったり誘導したりした。一瞬、仮面の上司に鋭い視線を投げかけられたような気もしたが無視を決め込んだ。
 大抵、府庫に顔を出すと邵可が居る。秀麗が作った饅頭を食べ過ぎないように、それでも少しずつ食べているようだ。時にはそこに絳攸や楸瑛の姿が有るときもある。けれどやはりというか、「兄様」らしき見知らぬ人物が居ることはなかった。もしかすると、上手に自分から逃げられているのかも知れない。
 燕青は溜息を吐きそうになりながら奇人に任された膨大な量の書翰をを運んでいた。見知らぬ人に嫌われなければいけないようなことはしていない、はずだ。理由も無しに避けられているのは嫌だった。話す余地くらい欲しい。
 

「ごめんね、燕青くん…まだ居ないんだ。」
 

 府庫に通い始めてから二日三日経つと、部屋に入って首を巡らせる度に最近では邵可が申し訳なさそうに苦笑するようになった。ぼんやりしている割に実は鋭い彼は、燕青が頻繁に府庫に顔を出すようになった訳を察したらしい。
 だが、全く府庫に帰っていないのかと言えば違う。だって、邵可が帰ってくる度に秀麗の差し入れた饅頭は空になってかえってくる。邵可が秀麗に「兄様」の代わりに礼を言っているところも目撃した。
 徹底的に逃げ回る「兄様」は、燕青よりも一枚も二枚も上手らしい。
 

「邵可さーん。」
 

 その日も半分やけくそで燕青は府庫に顔を出した。名目の書翰を手近にあった机の上にどっさりと山にするとそれを片付ける合間に部屋の中をぐるりと見回す。邵可は留守のようだ。
 

「んー…今回もハズレか。」
 

 呟いて書翰をちゃくちゃくと片付ける。また少し間を置いてから顔を出そう。そう思いながら、いつも秀麗からの差し入れが置いてある窓際の机をちらりと見た。
 

「―!!」
 

 思わず息を呑む。棚の合間に見えた饅頭ににゅっと手が伸びてくるのが見えたからだ。
 人の気配を読むのには長けていると思っていたはずなのに、人が居ることに全く気付かなかった。今も何気なく視線を向けなければ絶対に気付くことはなかった。華奢な手は、勿論邵可のものではなく、他の思い当たる誰の手とも違う。手にしていた書翰を棚に収めて、燕青は静かに息を呑んだ。
 

(ぜってー、見てやる。)
 

 思いも新たに、予備動作無しで大股に机に近付く。がたん、と大きく椅子の倒れる音。
 

「おい」
 

 ゆっくり息を整えて、平常心を装ってゆっくりと顔を上げていく。細い身体がまず目に入る。そうして、饅頭をくわえたまま吃驚している顔。きれいに整った顔に垣間見える穏やかさは、邵可に通じるものがあった。艶やかにゆったりと流れる黒髪も、彼ら親子を彷彿とさせる。
 間違いない、と燕青の中の直感が告げる。
 一方の兄様(仮)といえば、瞠った目を何とか戻すと平静を装って食べかけの饅頭を置いた。睨み付けるように凝視している燕青から逃げるのは無駄だと悟ったのか、肩の力を抜くのが分かる。邵可に似ていると思った面立ちは静かになった表情で改めて見ると全く違う。よりずっと、研ぎ澄まされたような鋭さと誰も寄せ付けないような冷たさがあった。
 でも、何故だろう、
 

(懐かしい…?)
 

 必死に記憶の糸を辿る間に、彼がゆっくりと口を開いた。観念したのだろう、開き直りとも言える落ち着きようだ。
 

「初にお目にかかる、私は紅―」
!!!」
 

 ぱん、と何かが弾けるように今度は燕青が目を見開いて大声を上げた。彼の言葉を遮って、最後の一歩を詰めると見下ろした細い身体を考えるより先に抱きしめる。
 ぎゅっと力を込めれば、強張った彼の腕が力なく燕青の腕を叩いた。

 

 

 

 

(060912)
長くなったので一区切り。主人公の名前を呼ぶ場所が全くない…