邂逅の時 2

 

 抱きしめたまま、燕青は呟いた。意識はしていなかったが、思っていたことがするりと口に出た。
 

「相変わらずちっせえなあ、お前は。」
 

 その一言は、少なからず彼の自尊心を傷つけたらしい。強張ってじっとしていたはずの身体が、いきなりばたばたと暴れ出す。燕青の背中を何度もその拳が叩いた。
 全く痛くなかったけれど。
 

「ばか言うな!俺はちゃんと身長くらい伸びたんだっ!!」
「えー、でもよ、前抱きしめたときと感じが変わんね、」
「君も一緒になってでかくなるから悪いんだろう!大体なんだこの無精髭っ…」
 

 段々語尾が弱くなって、ついには黙り込んでしまう。にやりと口元に笑みをたたえ、燕青は彼の顔を覗き込んだ。
 

「やっぱり、だ。」
「…その名で呼ぶな。俺にはっていう名前がある。」
 

 は不満そうな顔で燕青を見上げる。それすら嬉しいように、燕青は満面の笑みを崩さなかった。
 まさか、こんな所で会えるとは思わなかった。否、再び会えることすら、信じてはいたけれど確率は低かっただろう。は確約も何も、微かな望みさえ否定するように去っていったから。
 

「何で分かるんだ、君は。あれから声変わりだってして…今だって一番前と違う声音で喋ったのに。」
 

 無精髭の不審人物に対して初対面よろしく馬鹿丁寧に挨拶しようとしたのを遮られあっさりと正体を見破られて余程悔しいらしい。
 燕青にしてみればの不機嫌は分かるのだが如何せん顔がにやけて止まらない。とてもとても嬉しいのだ。もう一度会いたい、できたら顔もちゃんと見たいと思っていた相手がこんなに近くにいたのだから当然だ。
 腕の中にいるは、昔一度だけ、暗闇の中で抱きしめたときと変わらない。あの時とは違って周りが明るくて、彼も真っ黒の布を顔まで覆っていないから寧ろ前より好条件だ。
 あの時頑なに教えてくれなかった本名も、見たくて仕方なかったその顔も全部。
 

「何でかな、直ぐ分かったぜ。」
「…」
「今まで考えてたことも全部、はじけ飛んじまった。」
 

 が微かに身を捩らせて、漸く燕青は腕の束縛を解いた。改めて真正面から見ると、あの時は思いもしなかった綺麗な顔が視界いっぱいになる。年の頃は同じくらいか、少し下だとにおわせていたはずだけれど十代後半でも通じてしまいそうだ。
 ふと、旧知の美青年の顔が浮かぶ。年齢不詳だったらいい勝負だ。ついでに、忘れていたその大切な家族や何故か居ない子の部屋の主を思い出す。
 

「姫さんの兄貴だったんだな。」
 

 しみじみと言えばが首を捻らせる。燕青が饅頭を指さすと、その顔色が変わった。
 

「兄じゃない!叔父だ!!」
「…は、」
「秀麗は邵兄上の娘だろうが。だったら俺の姪だ。」
 

 またあの子は俺のことを兄と呼んでいたのか、とは綺麗な顔を歪ませる。流石にこれには燕青も驚いて瞬きを繰り返した。どう見ても「邵可の弟」より「秀麗の兄」の方がしっくりくる外見なのだ。まだ目の前でぶつぶつ言っているは自身を叔父と呼ばせることに拘りを持っているようだが、これでは秀麗が「兄様」と呼んでしまったとしても仕方ない。
 ぱっと燕青から身を離すと、は椅子に腰掛けた。ふい、と視線を外される。
 

「どうにか会わずにやり過ごそうと思ったのに。」
 

 不服そうに呟いて、肘をついた手に顎をのせる。さらさらと流れる黒髪が、燕青の目からの横顔を隠す。向かいにあった椅子の背を引いて、燕青はどっかりと腰を下ろした。
 

「会ってくれればいいだろ。」
「秀麗たちには俺が兇手をしてることは秘密なんだ…一体どんな知り合いなんだって根掘り葉掘り訊かれるのは嫌だ。」
 

 それに今は、季節が悪い。
 ぽつりと溢れた言葉は、聞かなかったふりをした。
 一緒に居た一年余りでたった一度だけ触れ合ったあの時も、夏の頃だったように思う。まじまじと髪の毛に隠れがちな横顔を見つめ、燕青はにあの時のように直ぐにでも崩れてしまいそうな脆さが見え隠れしていることに気付いた。もしかすると、その脆さのお陰でだと気付けたのかも知れない。
 

「…今日からは、ちゃんと帰る。「用事」も終わったからな。」
 

 燕青から寄せられる視線を別の意味で受け取ったのか、きまりが悪そうには言った。元々用事なんて無かったに違いない。全ては燕青から逃げおおせる為の口実だろう。
 けれど、これ以上に臍を曲げられても困るから燕青は何も言い返さなかった。
 

「なあ」
「…何だ。」
「会いたくなかった?俺と。」
「…」
「会いたかったぜ?俺はさ。」
 

 心からの言葉をすんなりと口にすれば、がこちらを向き直る。その眉が盛大に寄って眉間に皺を何本も作っていた。怒っていると言うよりは、困惑している表情だと燕青は思う。
 

「直ぐどこかへ行ってしまうくせに、君は俺にそんなことを言うのか。」
 

 恐らく、は燕青がここに来た本当の理由をお見通しだ。
 

「君の手助けなんてもうしない俺に。隣にいる理由もなくてすぐ置いて行かれるって分かってる俺に…君は。」
 

 嗚呼。
 燕青は溢れる笑みを隠せずに、の顔を更に歪ませることになった。
 失礼な話、には心を預けられるような血族以外の友人が多そうには思えない。不器用で、加減も分からないのだろう。
 要は、拗ねているのだ。本人も気付いていないだろうが。
 燕青は顔の大半を覆うぼさぼさの前髪と無精髭に感謝した。今の自分がどれだけ顔を緩ませているかくらい自覚できる。大半が隠れてしまっている笑みでも目の前のは嫌そうなのに、これで前髪も髭も無かったら怒り出しているかも知れない。
 


「…
、なあ、燕青って呼んでくれよ。俺の名前。」
 

 身を乗り出して、両手での顔を挟むと不機嫌そうな顔が泣きそうに歪む。燕青はそれをたまらなく愛しいと思う。
 

「まだ一月は居るつもりだしさ、それまで一緒に居ようぜ?そうしたら、離れてもまた会える。」
「なん、だ。その理屈…」
「呼べって、いいから。」
「………燕青」
 

 その声に呼応するように、心の中が温かくなる。
 まるで、十年前の気持ちが、羽化していくみたいだった。

 

 

 

 

(060912)
ちなみに少しも恋愛感情は(まだこの時点ではお互い)ありません。
一応このふたりは作中でも散々におわせているように十年前に接点があります。
燕青が茶州州牧になりたての時なんですけど…これはまた、おいおい書けたら。