夏は、きらいだ。 |
夏の臆病
あんあんとした気持ちで、は府庫への道を歩いていた。元より暑さにはめっぽう弱い(自慢にならないことは百も承知だ)。だが、それだけじゃない。にとって夏という季節そのものに、良い感情など微塵もなかった。 「憂いを帯びた表情もまたそそられるものがあるのだけれどね。どうせ見るのなら花が綻ぶような笑顔が見たいと思ってしまうよ。」
唐突に前方から声が届いた。あんあんたる気持ちのままにあんあんと思考を巡らせていたは少なからず驚いて、しかしそれをおくびにも出すことなく真っ直ぐに顔を上げる。目の前には思うとおりの優男が立っていて、はすっと目を細め歩みを再開した。 「あまりつれなくされると悲しいんだが。」 ふん、と鼻を鳴らしは立ち止まって振り返る。端正な顔がほっとしたように少しだけ緩んだ。 「いつも言っているけどね、あまり気持ち悪い声のかけ方をしないでくれないか。」
言いながらも、楸瑛は微笑んでいる。はばつが悪そうに顔をそらした。確かに、今のは大人げない八つ当たりだった。甥っ子を引き合いに出されるのは不本意だが、普段ならばもう少し柔らかく対応できたはずだ。 「…何笑ってる。」
一番話し掛けて欲しくない人物だったかも知れない、目の前の此奴は。それでも、そういう時に限って話し掛けてくるのが楸瑛だ。は溜息を吐きたくなるのを必死に堪えながら声を絞り出す。笑みを深くする楸瑛には全く堪えてないみたいだが。 「お茶をいれてくれないかな。」
夏の天気は時に不安定で。今日のこの日もあれだけ青空を拝ませて必要以上にぐんぐん気温を上昇させたのに、今窓から見える空はもくもくとした雲が溜まりつつあって陽差しが弱くなっていた。 「雨が降りそうだね。」 微かな反応を、楸瑛は気付いただろうか。この男ならば、全て分かった上で言葉を選んでぶつけているのだろうと見当はつく。 「そういえば、秀麗殿はとても頑張っているらしいね。あの奇人が気に入ってるんだそうだよ。」
無言を貫いて茶の準備をしていると、楸瑛が更に言葉を重ねてくる。姪の秀麗は、今外朝にいる。この暑さでばたばたと倒れていく文官たちの少しの穴埋めとして男の子の恰好をして潜り込んでいるのだ。ちなみに、回り回って楸瑛から聞かずともは秀麗の毎日の頑張りくらい知っている。だって、毎日当の本人から話を聞いているのだから。 「…あの子が頑張ってることくらい、君に言われなくても知ってる。」 茶碗をそっと差し出せば、ありがとうと楸瑛が言う。とびきりの笑顔と一緒に。 「見たのが私で良かったんだよ、。」
自分の分もいれ終わってから改めて椅子に座ると、計ったように楸瑛が切り出した。何が、と問うまでもなく分かる。先の楸瑛に声をかけられた時のことだ。 「あんな泣きそうな顔をして歩いていてごらん。君を狙う人間は掃いて捨てるほど居るんだよ…いろんな意味でね。」 付け入られるぞ、と楸瑛は言外に言っていた。 「俺は揺るがない。」
強情な声と瞳に、今度は楸瑛が目を閉じる番だった。優しい表情も、声も、言葉も何も要らないと頑なに突き返す。そうしていないと、直ぐにでも縋ってしまいそうだったから。自分に甘くする目の前の男が、いつも不思議でならなかった。 「また今年も踏み込ませてはくれないわけだ、君は。」
思いの外強い調子の言葉にが瞠目するより早く、空が一度強く光った。追うように、耳を劈く雷鳴。雷の音に人一倍敏感で、驚き恐ろしがるあの子が心配だった。
他の誰かを心配していないと、自分の足が竦んでしまう。 「…、楸え、」
気付いた時には楸瑛は無駄に長い足を駆使してほんの二歩での側に立っていた。顔を上げて、名を呼ぶより早く、座ったままの身体を強く抱きしめられる。息が止まるようだ、と思った。背を向けた外が、また光る。 「気付いてしまうんだよ、胸が締め付けられるみたいに心配になる…いくら、突き返されても。」 奪って去っていく夏がきらいだ。傷口を抉るだけ抉って、大切な人を悲しませる夏が嫌いだ。 「いやだよ。もっと巧く隠せるようになってから言いなさい。」
上手に隠しているつもりなのに、どうして此奴はこんなにも聡く見分けてくる。抱きしめる腕は緩まない。の腕はうまく動かなかった。逞しい背に回したいと思う心と、これ以上弱みを見せてどうすると叱咤する心がせめぎ合う。 「認めたくないなら、それでいい。だから、私にも好き勝手させて欲しい。」
顔を胸に押しつけられれば、品の良い香が鼻腔をくすぐった。
夏は、きらいだ。 |
(061015)
ちょっと楸瑛に夢を見すぎでしょうか(笑)
アップ時期をはかっているうちに夏が終わってしまったので慌ててアップ。
時間枠的に「邂逅の時」とかぶってる感じになっちゃいました。