夏は、きらいだ。

 

 

夏の臆病

 

 

 

 あんあんとした気持ちで、は府庫への道を歩いていた。元より暑さにはめっぽう弱い(自慢にならないことは百も承知だ)。だが、それだけじゃない。にとって夏という季節そのものに、良い感情など微塵もなかった。
 この季節は自分から、そして愛する人たちから大切なものを奪った。それだけでは飽きたらず、幾度巡って来る度に記憶を掘り起こし傷口を抉るようにして愛する人たちを何度でも傷つけていく。だいきらいだ。
 古傷を弄ばれるのは自分も同じだったけれど、あのひとたちに比べればその傷は浅かろうから。幾度も巡ってくるならば、幾度も傷つけようとするならば、他ならぬ自分がしっかりと支えなければとは思う。一番か弱い「あの子」が、しっかりと踏ん張って涙を堪えようとするのだから、これくらいの痛みは痛みの内に入らない。
 

「憂いを帯びた表情もまたそそられるものがあるのだけれどね。どうせ見るのなら花が綻ぶような笑顔が見たいと思ってしまうよ。」
 

 唐突に前方から声が届いた。あんあんたる気持ちのままにあんあんと思考を巡らせていたは少なからず驚いて、しかしそれをおくびにも出すことなく真っ直ぐに顔を上げる。目の前には思うとおりの優男が立っていて、はすっと目を細め歩みを再開した。
 何事もなくすれ違おうとした自分を、彼は腕を掴むなんて野暮なことはしなかった。ただ、通り過ぎる瞬間に苦笑が漏れる。通り過ぎて数歩のところで、声が追いかけてくる。
 

「あまりつれなくされると悲しいんだが。」
「君の言葉をいなしてしまうなんてどこぞの貴婦人だい?珍しい。」
「…分かった。普通に話し掛けるから戻ってきてくれ、。」
 

 ふん、と鼻を鳴らしは立ち止まって振り返る。端正な顔がほっとしたように少しだけ緩んだ。
 藍楸瑛は美青年だ。どんな女人も、彼に掛かれば(稀な例外を除いて)直ぐ虜になる。見返りの愛は求められないと知りつつも虜となって、求められないはずの見返りを求めてしまう。羨ましい者にとってはとことん羨ましい、憎い奴であった。
 しかし、にとって楸瑛の顔などどうでも良かった。もし彼の顔が見るに堪えないものであったとしても、態度は今と何一つ変わらない。
 

「いつも言っているけどね、あまり気持ち悪い声のかけ方をしないでくれないか。」
「いいじゃないか、思った通りを口にしているのに。」
「それじゃあ少し考えてから話し掛けろ。」
「…絳攸も流石にそこまで言わないよ。」
 

 言いながらも、楸瑛は微笑んでいる。はばつが悪そうに顔をそらした。確かに、今のは大人げない八つ当たりだった。甥っ子を引き合いに出されるのは不本意だが、普段ならばもう少し柔らかく対応できたはずだ。
 

「…何笑ってる。」
 

 一番話し掛けて欲しくない人物だったかも知れない、目の前の此奴は。それでも、そういう時に限って話し掛けてくるのが楸瑛だ。は溜息を吐きたくなるのを必死に堪えながら声を絞り出す。笑みを深くする楸瑛には全く堪えてないみたいだが。
 

「お茶をいれてくれないかな。」

 

 

 

 夏の天気は時に不安定で。今日のこの日もあれだけ青空を拝ませて必要以上にぐんぐん気温を上昇させたのに、今窓から見える空はもくもくとした雲が溜まりつつあって陽差しが弱くなっていた。
 府庫には誰も居なかった。心の底からいて欲しいと念を送るように願っていたここの主は生憎書き置き一枚を残して不在であった。今度こそ深々と溜息を吐いたは適当に楸瑛を座らせると手ずから茶器を準備する。府庫の主の不在をまるで分かっていたかのようにしたり顔で微笑む楸瑛は椅子に深く腰掛けての動作をじっと見つめていた。
 

「雨が降りそうだね。」
 

 微かな反応を、楸瑛は気付いただろうか。この男ならば、全て分かった上で言葉を選んでぶつけているのだろうと見当はつく。
 夏の雨は、時に激しく降り雷をもたらす。
 

「そういえば、秀麗殿はとても頑張っているらしいね。あの奇人が気に入ってるんだそうだよ。」
 

 無言を貫いて茶の準備をしていると、楸瑛が更に言葉を重ねてくる。姪の秀麗は、今外朝にいる。この暑さでばたばたと倒れていく文官たちの少しの穴埋めとして男の子の恰好をして潜り込んでいるのだ。ちなみに、回り回って楸瑛から聞かずともは秀麗の毎日の頑張りくらい知っている。だって、毎日当の本人から話を聞いているのだから。
 

「…あの子が頑張ってることくらい、君に言われなくても知ってる。」
「ああ、そうだったね。これは野暮なことを言った。」
 

 茶碗をそっと差し出せば、ありがとうと楸瑛が言う。とびきりの笑顔と一緒に。
 

「見たのが私で良かったんだよ、。」
 

 自分の分もいれ終わってから改めて椅子に座ると、計ったように楸瑛が切り出した。何が、と問うまでもなく分かる。先の楸瑛に声をかけられた時のことだ。
 美味しそうにのいれた茶を飲みながら、楸瑛は窓の外を眺める。ぽつ、ぽつ、と窓を雨粒が叩き始めた。耐えかねるようには茶碗に両手をそえてそっと目を伏せる。ちらりと、楸瑛が横目に見つめているのは気付いていたけれど、装うにも限界があった。
 

「あんな泣きそうな顔をして歩いていてごらん。君を狙う人間は掃いて捨てるほど居るんだよ…いろんな意味でね。」
 

 付け入られるぞ、と楸瑛は言外に言っていた。
 兄同様ぱっとしない人間を演じているだが、その容姿や、その躯に流れる血で手を出してくる身の程知らずは少なくない。普段ならばそんなもの表情も変えずに一蹴できるだが、今は時期が悪かった。夏という季節に、賊退治に借り出されている家人。必死に何でもないとわき上がる感情を押し止めて踏ん張っていたって、綻びはふとした瞬間に現れる。
 それでも、認めたくなかった。
 ぎゅっと瞑った目を開けて、真っ直ぐと楸瑛を見つめた。
 

「俺は揺るがない。」
 

 強情な声と瞳に、今度は楸瑛が目を閉じる番だった。優しい表情も、声も、言葉も何も要らないと頑なに突き返す。そうしていないと、直ぐにでも縋ってしまいそうだったから。自分に甘くする目の前の男が、いつも不思議でならなかった。
 段々と、窓を叩き付ける雨脚は強まっていく。暗雲が立ちこめていた。ごろごろと、嫌な音が遠くで聞こえる。
 

「また今年も踏み込ませてはくれないわけだ、君は。」
「諦めてくれて構わない。」
「そんなのごめんだよ。」
 

 思いの外強い調子の言葉にが瞠目するより早く、空が一度強く光った。追うように、耳を劈く雷鳴。雷の音に人一倍敏感で、驚き恐ろしがるあの子が心配だった。 他の誰かを心配していないと、自分の足が竦んでしまう。
 だから、とは言わないけれど、気付くのが遅れた。目の前でじっと目を瞑っていた男が、立ち上がったことに気付かなかった。
 

「…、楸え、」
 

 気付いた時には楸瑛は無駄に長い足を駆使してほんの二歩での側に立っていた。顔を上げて、名を呼ぶより早く、座ったままの身体を強く抱きしめられる。息が止まるようだ、と思った。背を向けた外が、また光る。
 

「気付いてしまうんだよ、胸が締め付けられるみたいに心配になる…いくら、突き返されても。」
「離して、」
 

 奪って去っていく夏がきらいだ。傷口を抉るだけ抉って、大切な人を悲しませる夏が嫌いだ。
 でも、きらい、の以前には夏が怖かった。夏が過ぎるのを指折り数えながら待ち続けて、何も奪われなかったことに泣きそうな程に安堵して。もうこれは死ぬまで続くのだと、諦めの境地にまで入った。あの子に比べれば、兄たちに比べれば、ものの内に入らない痛みでも、恐怖だけは他人と比べようがない。
 

「いやだよ。もっと巧く隠せるようになってから言いなさい。」
 

 上手に隠しているつもりなのに、どうして此奴はこんなにも聡く見分けてくる。抱きしめる腕は緩まない。の腕はうまく動かなかった。逞しい背に回したいと思う心と、これ以上弱みを見せてどうすると叱咤する心がせめぎ合う。
 

「認めたくないなら、それでいい。だから、私にも好き勝手させて欲しい。」
「…」
「自己満足を、させてくれ。」
 

 顔を胸に押しつけられれば、品の良い香が鼻腔をくすぐった。
 こうやって、優しさも激しさも見せつけられて女はこの男に堕ちていくのだろうか。と、回転の遅くなった頭で考えた。思考を手放してしまうには、安易に縋ってしまうには少々 自分は自尊心が高すぎる。
 ぴかり、と空が光って部屋を照らす。劈く雷鳴は、もう身を竦ませるようには響かなかった。

 

 

 

 

 夏は、きらいだ。

 

 

 

 

(061015)
ちょっと楸瑛に夢を見すぎでしょうか(笑)
アップ時期をはかっているうちに夏が終わってしまったので慌ててアップ。
時間枠的に「邂逅の時」とかぶってる感じになっちゃいました。