A shot across the bows

 

 病院のロビーで、明るい色のパーカーに包まれた背中を見つけた。少し猫背気味のそれは、くんのもの。
 両手に持っていた見舞い用の花束を左手に持ち替えて、足を速めた。追いついた肩を叩く。


「! 白石さん。」
「やあ、くん。」


 振り返った顔は俺を認めるまで少し強張って、直ぐに氷解した。足を止めて振り返ると、俺を見上げてから頭を下げる。


「こんにちは。今日は、養父にご用でも?」


 俺が微かに頷くと、微笑を浮かべて俺の隣に並ぶ。一緒に歩き始めると、少し下にあるくんを見つめた。
 年の頃は20の前半だと聞いている。フィクサーや、俺達詐欺師に貴重な情報をもたらす情報屋・蝶々の「二代目」。こうやって歩いているのを見ているだけでは、ただの家族の見舞いに来た孝行者の青年にしか見えない。
 喧噪の中を歩いて、エレベーターにふたりで乗り込む。この箱に乗り込んだのは俺とくんだけだった。


「用、と言うほどのもんじゃない。揚羽蝶の見舞いだよ。」


 そう言って花束を掲げてみせると、ありがとうございます、と小さな礼が聞こえた。
 くんは両手で大きめの紙袋を持っている。口から覘いているのはタオルとか、ペットボトルだ。
 彼が「ちち」と呼ぶのは、養父の情報屋・蝶々の一代目。俺が世話になったのは、未だ一代目の方が多い。半分隠居生活のような揚羽蝶は、今でも裏社会に絶大なコネクションを持っているという。
 二代目のくんは馴染みの人間―例えば桂木さんなんか―には紋白蝶と呼ばれている。彼の持ってくる情報は、流石揚羽蝶仕込みの正確かつポイントを突いた物ばかりだけどこれでも未だ半人前らしかった。


「養父が喜ぶよ。白石さんのことすごい気に入ってるから。」
「それは光栄だな。」


 桂木さんと仲が良いというのは伊達じゃなく、揚羽蝶自身も非常に難しい性格をしている。それ故に、一代目から直接情報を貰うのは困難を極める。けれど、俺は幸運なことにあの偏屈な老人に好かれている方だ。彼から直接情報を買ったことも何度かある。その度その背後に控えている息子と言うよりは孫のようなくんを何度も見ていた。
 くんは何時だって実年齢らしからぬ物静かさで、時々揚羽蝶が好々爺の顔で何か話し掛けたときだけ口元を緩めて何か喋っていた。
 その笑顔とも呼べないくらいの笑顔がずっと瞼に焼き付いている。


くん」


 エレベーターが目的の階数に止まる。最上階、VIP待遇の個室だという。彼が持っているであろう財産を考えれば、別に可笑しくもない。


「なに?」


 降り立ったくんが立ち止まって先を促す。歩けば直ぐに、揚羽蝶が待つ個室だから。


「クロサギは、止めておきなさい。」


 ゆっくりと向き直って、俺は告げた。クロサギ、くんと同年代の、詐欺師を憎む詐欺師。
 普段滅多に揺らがない瞳が、微かに、でも確実に揺れた。二の句を接ぎたくなるのをじっと堪えて、くんの反応を待つ。


「…多分、あいつは、行ってしまうから。」


 ぽつん、と落ちた言葉は少しだけ俺を安心させる。今、言っておいて良かった。
 くんが、俺の花束を持つ左手首をとった。


「養父が待ってる。」
「…ああ、そうだったね。」


 顔を伏せた彼の表情は読み取れなかった。いつものくんらしくない、感情が濃く滲んだ声に俺は頷く。看護師達とすれ違いながら歩き、目の前の細い背中を見ながら思った。

 行くなら早く、行ってくれてしまえばいいのに。

 

 

 

 

(060803)
君を惑わせるものなんて、なくなってしまえばいい。