猫を連れての部屋に避難した。放っておくと、俺を置いてあのめんどくさい女に鳴いて近付いてしまうから危険なんだ。
「飯、外で済ませてきたから無えけど。」
扉に肘をついて通せんぼするように立ったは嫌そうな顔で俺を見る。構わねえから入れてくれ、と言うと、顔を通路に出して隣の部屋を一瞥してから身を片側に寄せる。
そう言えば、の部屋に入るのは初めてだ。
俺の部屋と違って適度に片付けられた部屋。机に、棚に、少しだけ床に散乱した衣類と雑誌。標準的な成年男子の部屋といえばそうだけど、どこか作られた空間めいたそんな感じがした。
例えるなら、俺が詐欺をする時に考えてディスプレイする室内のような。
「牛乳、飲むか?」
「俺は別に―」
「猫だよ。」
成る程、皿と牛乳を持ったがいつの間にか目の前に立っている。抱いたままだった猫を下ろすと、そのまますんなりとの足許にじゃれついた。俺にするのとは随分と違って、柔らかい表情でしゃがみ込んで皿に牛乳を注ぐ。牛乳を遠慮無くなめはじめた猫をひと撫でしてから、は冷蔵庫に向かった。そこから麦茶を出して、今度こそ俺に振り返る。
「麦茶」
「もらう」
質素な机に置かれたグラスがふたつ。複数並ぶ食器なんて、仕事以外の時には久しぶりな気がした。
「俺、女難の相でも出てんのかなあ。」
一息吐いて、溜息混じりに溢した。
が俺そっちのけで読み出した新聞から顔を上げる。眉がぴくりと跳ねた。
「氷柱ちゃん?」
「…なんだよ、その呼び方。」
今度は俺の眉が跳ね上がる番だ。
隣に住んでるめんどくさい女とその友達らしいめんどくさい女その2。テリトリーを無遠慮に踏み荒らされているような感覚ははっきり言って不快だ。胃がむかむかとしてくるようで、調子が狂わされっぱなし。
このアパートの住人に共通して言えることは、近所づきあいに乏しいこと。それは、にも当てはまると思っていたのに普通に名前を呼ぶから驚いた。同時に、知らない内にめんどくさいあの女とに接点が出来てしまっていたのがむかつく。
「大家の知らないところで仲良くなってるんだ?」
「別に大家に断り入れなきゃ口きけねえなんて決まり契約書になかっただろ。」
「……」
「…仲良くねえよ、その場の流れで何回か話しただけ。」
押し黙った俺にめんどくさそうな顔をしては付け足す。名前で呼ぶのは名字を覚えていなくて、彼女の友達が氷柱氷柱とやたら呼ぶから(どうやらめんどくさい女その2とも面識があるらしい)で、ちゃん付けなのは呼び捨てるような仲ではないからなのだそうだ。
なんだそういうことかと俺は妙に安心して、自分でも首を傾げたくなるような気持ちで麦茶に口をつける。
「あの子達にとってはおまえのほうが気になるだろ。俺じゃなくてさ。」
「それが嫌なんだよ、めんどくさい。」
にゃあ、と空になった皿を前に行儀良く座って猫が鳴いた。は俺から視線を外して、真っ黒な毛並みを撫でる。
「…本当にめんどくさいだけか?」
呟かれた言葉は、よく聞こえなかった。
顔をしかめて、はあ?と声を上げればは再び俺を見た。その目には、俺の嫌いな色が宿っている。俺よりも深い、俺には理解できない、くらいくらい闇色。
俺よりひとつ年上なだけのくせに。
俺より少し背が高いだけのくせに。
俺の伸ばす手は、いつもいつも、には届かない気がする。
「掻き回されるのが、怖いんだろ。」
「…何言って、」
「線からこちら側に入って来たはずの自分に、向こうから声をかけられて手を伸ばされるのが怖いんだろ。」
「!」
こいつに手が届かない度に、こいつの言う言葉がうまく飲み込めない度に迫り上がってくる気持ちがある。
それは、今日、今、一番色濃く感じる。
「安穏とした日々は続かねえんだよ、黒崎。」
泣きそうな顔をしてるは、今にも泣きついてきそうなのに俺のことを頑なに拒絶してる。
俺とを隔てる扉。辛うじて開いているそれが、閉まってしまいそうな錯覚。
伸ばしたいはずの手は、麦茶の入ったグラスに吸い付いたまま離れない。視線はから離れないのに、も俺のことを見てるのに。にゃあ、と黒猫だけがこの空間で我関せずの膝にすり寄っている。
手が届かない。何を言ってるのか理解できない。哀しそうな目が、静かに確実に俺を責め立てる。
掌にいやな汗をかく。奥歯を噛み締める。
これは、きっと、どうしようもない焦燥感。
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