伊崎にじっと睨み付けられて、どうしたものかと考えながら身体が強張ってしまう。見た感じのイメージではいきなり殴りかかってくるなんてことは無いと思いたいが、何しろ初対面で深く知っているわけでもない。身体が勝手に身構えてしまうのだ。
不機嫌なオーラをまき散らしている伊崎は、こちらの最悪の予想からは外れて組んだ腕を解くことはなかった。ただ、随分と苛ついているらしい。フン、と鼻を鳴らして口を開く。
「じゃあ何で鈴蘭に入って来たの?」
「いきなり家族の転勤が決まって、願書の提出が間に合うのがここくらいしかなかったの。俺、どうしても高校を卒業したいから。」
選択肢は、願書の提出期限と入試の日にちと、自分の頭と相談して決めた。確実なのは、ここしかなかった。もう少し頭の方が足りていれば、他の選択肢はあったのだろうが、切羽詰まってから無い物ねだりをしても仕方ない。
鈴蘭は確かに噂や評判は地を這うようなものだったけれど、意外とすんなりと卒業して、ちゃんと働いているOBも多いらしい。高校を卒業したいと思っている自分にとっては無理をして賭をするより、すんなりと鈴蘭に決めた方が良いと思ったのだ。間違っても鈴蘭の悪名を聞いて入学を決めたんじゃない。
「なんだ、喧嘩できないのか…できそうな感じだったのに。」
伊崎は最後につまらなそうに、言い放った。
ポケットに突っ込んだ手をぎゅっと握りしめて、ノーコメントを貫く。ちょっと、奥歯がギシギシ言いそうだったけれど、根性で留めた。
侮辱されたから怒っている訳ではない。伊崎があからさまに「喧嘩売ってますよ〜」的な言い方なのが良くないのだ。ただ侮辱したり、馬鹿にするんだったら自分はさらりと受け流すことが出来る。
でも、売られると買いたくなる。こればっかりは昔からの性分だから簡単になおせない。
今だってどう考えても売られてるから買いたいけど、喧嘩に興味はないのだ。誓って。
上半身を捻ってこちらの顔を覗き込んだ伊崎が、楽しそうに笑った。一生懸命踏ん張っているつもりでも、顔には多少なり我慢しているのが出てしまっているらしい。
「できない訳じゃないんだろ?何必死に我慢してるんだよ。」
「…興味がないから。」
「なあ、、俺の側に来いよ。お前だったら無条件で連れてってやるよ。」
「遠慮する。興味ねえっつってんだろ。」
楽しそうな伊崎に対して、俺は全然楽しくない。言葉の端々に挑発を感じ取ってしまう。ポケットの中から拳を出して、隣のしたり顔を思いっきり殴りつけたい衝動を押し止めるのに必死だ。
何せ初日から喧嘩してしまったのでは、権力争いに参加しますと挙手してアピールするようなものだ。それだけは避けたい。
自分はただ、3年間過ごして高校が卒業できればそれでいいのだ。高校生活にスリルは求めていない。
「今日はこれからあっちに入ってこなきゃいけないから諦めるけど、前向きに考えといてよ。」
とんとん、と爪先で床を叩いて、ぐっと背伸びした伊崎は俺の言葉を全く無視して言う。そして返事も待たずに雄叫びをひとつ上げて乱闘騒ぎの方に突進していった。身長が低い方でもないだろうに、その背中はあっという間に見えなくなっていった。最初はちょっと小馬鹿にしたような雰囲気だったくせに、結局混ざるのか。
俺はポケットの中で握りしめていた拳をやっと解いて、溜息を吐く。嫌だときっぱり言っているのに、人の話を聞いていない奴だ。自分の思い通りにしたいタイプなんだろうか。これから伊崎と毎日同じクラスだなんて、先が思い遣られる。早く俺から興味を無くしてくれれば良いのだけれど。
「……?」
鬱々とこれから先を考えていたら、ふと、視線を感じた。顔を上げて、その視線を探す。
視線の主はあっさりと見つかった。乱闘から何十センチか離れたところで、足を止めてじっとこちらを見てる男がいたのだ。もちろん伊崎ではない。
ウェーブがかかった黒髪で、珍しく学生服を上着までしっかり着込んでいた。中にはちゃんとワイシャツだ。それだけで、物珍しくて目立つ。体格も普通だし、乱闘騒ぎに参加するよりも、少し離れたところで見物している方が似合いそうだ。
そんな奴が、じっとこちらを見つめていた。殴り合いの最中とは思えない静かな目からは、何かを読み取ることも難しくて、少なからずそわそわとした居心地の悪さを感じてしまう。
県外から来たから知り合いのはずはない。小中学校あたりの同級生を思い出してみるも、やはり違う。初対面だ。
(伊崎と一緒に居たもんだから、目立っちゃったとか?)
だったら本当に伊崎は俺にとってろくな奴じゃない。心の中で伊崎に文句をつらつら並べながらも、俺は喧嘩の意思はありませんよ、と知らない男に向かってにへらと笑って見せた。別に友達になりたいわけでもないが、睨み付けたら挑発になってしまう。随分と引きつった笑顔だったかも知れないが、相手は俺の笑顔に対して意外にも同じように笑ってきた。
(わ、)
その笑顔ときたら、くしゃくしゃで無防備で、乱闘の真ん中に居る奴だということを一瞬忘れかけた。吃驚して、同時に不覚にも少し惹きつけられてしまった。
しかしそれは本当に、一瞬だった。俺が次の思考に足をかけようかというその時に、笑顔の彼の横っ面に無骨な拳がめり込んだのだ。高速の拳にいびつな笑顔は吹っ飛んでいく。俺は、一声もあげることができないまま、吹っ飛ぶ彼を眺め続けることしかできなかった。ちなみに、吹っ飛んでいく時も、まだ殴られたと分かってないのか彼はいい笑顔のままだった。
その後は、彼らしき人物が立ち上がってさっきまでの笑顔はどこへやら、鬼の形相で長い足を振り上げたのがなんとなく見えた気がする。
俺は、ため息をついて回れ右をする。開きっぱなしになっている体育館の扉に向けて歩き始めた。確かめたくもなかったし、相変わらず終わる気配の見えないこの大乱闘を見続けているのもなんとなく飽き始めていたのだ。きっと、この後のホームルームなんてものも当然ないだろう。きっと、帰っても後々教師から怒られることはないはずだ。
(うん、もう帰ろ。)
自分の中で納得して、俺は体育館を後にした。まぶしい光に目を細めながら、少しだけ後ろを振り返る。落書きだらけの校舎と、遠くに聞こえる怒鳴り声。
こうやって、いまいち自覚もないままに、俺の高校生活はスタートした。
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