垂れた前髪からひっきりなしに流れてくる水がうるさい。しっとりと水分を含みきってぴったりと密着してくるような学ランも、脱いで置いて行ってしまいたいくらいだ。
べしゃべしゃと重い足取りで歩いていると、いつか、身体中を打ち付けていた雨の感覚がふっと無くなった。前方は、変わらない河原の景色が広がっている。だったら、と今度は軽く身体を捻って後ろを見た。
「カサ、どーしたのよ?」
爪先立ちで、腕を一生懸命伸ばして傘を掲げてくれている。端から見ると微笑ましいというか、少し笑えるの姿がそこにあった。呆れきった表情で、自分を見上げている。
「…忘れたんだよ。」
「うっそつけ。朝、持ってたろ?ビニール傘。」
「……学校に、」
「雨降ってんのに、カサ忘れて出てくるわけ?」
八木に渡したとはどうしても言いにくくて、安易なことを言ったらあっさりと見破られた。朝なんてほとんど顔を合わせないというのに、ちゃんと片手に握った傘を見られていたなんて。こちらは今朝、がどんな風だったかなんて全く知らないというのに。
慶はこれ以上の追求を避けるように、濡れて冷え切った手でから傘を取り上げた。待っていたかのようにはさっと手を下ろし、ふたりの頭が雨に濡れないくらいの距離まで一歩前に出る。自分が持っていたのとそう変わらない大きさのブルーのビニール傘。どう考えても、男ふたりが入るには窮屈だ。
一体いつ、は自分の姿を見つけこんな近くまで来ていたのだろう。こういう日は雨の音でいつも聞こえるような音が紛れ気味だが、河原のようにぬかるんだり水溜まりの多い道であればその分足音だって大きい。最近では
特にいつ喧嘩をふっかけられてもおかしくないから、後ろや前からの人の気配には敏感になっているつもりだった。
「ったくもー、でかくてムカツクよなー。慶ちゃん。」
「…喧嘩売ってんのか。」
「まさか。」
慶よりも頭一つ分小さい。彼が自分の無駄に育った長身を、いつも羨望の眼差しで見ているのは知っている。がもし自分くらいの身長を持っていたなら、きっと彼は今以上に部活で活躍できるだろう。有り余るスキルと身体能力でカバーしていると言っても、根本的な部分で補えない部分はいくら頭で諦めがついていても、羨ましいものは羨ましいに違いない。
そこまで考えて、ふと思い当たる。今は放課後。自分たち野球部といくら仲が良いと言っても、は表向き普通の生徒だ。勉学よりも、スポーツが好きで、部活でも重宝されている生徒。
「部活、どうした。」
こんな所に、特に自分と一緒になどいるべきではない。一言の中にもそれなりの圧力を込めて伝える。
しかし、(分かっていたことではあるが)はさっぱり怯む様子を見せない。それどころか、肩についた水滴を手で払いながら、ふう、と息を吐き出した。
「サボってなんてないよ、一応ね。今日はやーすーみーなの。」
「そうかよ。」
「そうですよー。帰ろっか遊ぼっか考えながら歩いてたらずぶ濡れで歩く慶が見えたからさ。」
「ふん」
入学した頃から、なんとなく野球部の自分たちと、バスケ部のは仲が良かった。真面目な方じゃない自分たちに、怖がりもせずにくっついてくる。野球部の仲間、というくくり以外ではは一番心地良い友人だった。
そしてそれは、野球部が活動停止になってからも変わらず、今徐々に野球部が変わりつつある中でも変わる気配はない。ひとり離れてしまった慶の元にも、いつも通り顔を出し、言葉を交わす。見上げてくる目の色も、変わらない。
全てが一気に動き出したからこそ、変わらないが内心有難かった。焦り、訳が判らなくなっているときに心を落ち着かせてくれる。
でも、だからこそ恐ろしくもあった。
もし今、までが変わっていってしまったら。自分の元にこうやってやって来てくれなくなったら。
「慶はさー…」
黙りこくった慶を見上げ、が口を開いた。しかし、折角開いた口を中途半端に閉じてしまう。そのまま、は何も言わない。
「んだよ」
「…そーゆう顔は、ズルイよ。俺何にも言えないだろ?」
なかなか先を続けないから促してみれば、拗ねたような顔で言われてしまった。先を聞きたいと思って促したのに、言葉よりも無自覚の表情の方をは優先させるらしい。自分の顔を見つめる趣味もないから、鏡もなく、曰く「ズルイ」自分の表情も見ることができない。
一方のはぶすっとしたまま慶の学ランの裾を引っ張った。歩こう、という意思表示だ。すっかりびしょびしょになった靴で一歩を踏み出す。
「いるよ。」
少しずつ弱まり始めた雨音に混じって、ぽつんとの声が届く。歩みを止めると怒られそうな気がして、慶は歩き続けながら隣を見下ろした。髪型をかちっとセットしてくるタイプじゃないから、
視界いっぱいにダークブラウンの髪の毛がふらふらと揺れている。だが、見えるのはそれくらいで、目を合わせることはできなかった。
「俺はさ、慶がいらないって言うまで、いるつもりだよ。」
(…誰がいらねえなんて、言うんだよ。)
言われるなら、どちらかと言えば自分の方だ。
きっと自分は、いらないとに言われてしまったら、もうこんな近に並べないだろう。今の安仁屋たちに対するように、遠くから、見つめることしかできなくなってしまう。
それは、嫌だと思った。
また置いて行かれるのは嫌だという思いが、まずある。それに、が自分から離れて行ってしまうのは耐えられない気がするのだ。は、野球部の仲間と比べられないくらい大切な存在。最近じゃいつも、いつ変わってしまうのか、自分のところだけ来なくなってしまうのか、そんな怖さばかりに襲われる。
そんな自分が、一体どうしてにいらないなんて言えるのか。慶にはがどうしてそんなことを言うのか分からない。
「おい」
「お、雨止んだ。」
問いただしてみようと呼び止めた瞬間、するりと傘の下から出て行ってしまった。運動部らしい身体の軽さで、くるくると走り回ってこちらを見る。
視線を受けて、傘を下に降ろすと、もう身体中を打つ冷たさは感じない。いつの間にか雨は止んでしまっていた。
上の方に見える堤防を歩く人達もいつの間にか傘をささずに歩いている。窮屈で歩きにくい相合い傘から解放されたはずなのに、気持ちはさっぱり晴れなかった。
「良かったな!あんなんで街出たらケンカ売られてもすぐに買えないじゃん。」
複雑な内心など知りもしないは、そう軽口を叩きながら慶が畳んだ傘をとりに来る。大人しく差し出した傘を受け取って、柄の部分を持ちながらくるくると振り回した。
先程のやり取りが、もう随分と昔のことのように遠く感じる。さっきまでの妙な雰囲気は霧散して、いつも通りの笑顔と声。
慶からあっさりと視線を身体ごと引き離して、また歩き始める。
「!」
慶はたまらなくなって、腕を掴む代わりに立ち止まったまま声を張り上げた。立ち止まったは、首を傾いで見つめてくる。
そのきょとんとした表情を見つめて、何を言えばいいのか、今更考えてしまう。どうして大声で呼び止めたのか、なんであんなに焦ってしまったのかもう分からない。
変われない、変わりたくない。誰にもどこにも行かないで欲しい。
はそれに対して、どこにも行かないと言った。慶自身が、いらないと言うまでは行かないと言った。自分はきっと、そんなことを口が裂けても言わないと思っている。
「大声出さなくたって大丈夫だって。こんな近くにいんじゃんか。」
「……たまたま、大声になったんだよ。」
「…ほーら。帰ろ、慶。お前そんなべちゃべちゃじゃ格好良くないから。」
「うるせぇ。」
はずなのに。
(―なんで。)
と会う前に見ていた光景が、思い出したくもないのにリフレインした。その姿は、誰かに重なっていく。
野球が好き。でも、正直になんて、今更なれない。こんな状態から、変わり始めることなんてできようがない。変われない。
変わりたく、ない。
(なんで。)
人知れず握りしめた拳は、真っ白になっていた。 |